毛布を抱きしめて眠っていた。/毛布を抱きしめるようにして眠っていた。並べると、前者では本当に毛布を抱いています。後者では——ここが妙なところですが——たぶん抱いていない。腕は毛布の上に載っているだけかもしれないし、体を丸めて縁を挟んでいるだけかもしれない。五文字加わっただけで、文が報告している事実そのものが入れ替わります。
「ように」は直喩の標識として、字義どおりの解釈を打ち消す働きをします。氷のような手、と言えば、その手が氷でないことは言わずに伝わる。標識がついた時点で、比較の対象と実際の対象は別物だという含みが立ち上がるからです。動作に付いた場合も同じで、実際の動作はこの語形が名指しているものとは違う何かであり、書き手はそれを直接名指すのを避けている。避けたうえで、読者に形だけを渡している。
ややこしいのは、同じ形が別の仕事もすることです。「聞こえるように話す」「遅れないように出た」の「ように」は、比較ではなく目的を示している。この場合、内側の事態はむしろ実現が目指されており、打ち消されてなどいません。同一の形式が、片方では字義を否定し、もう片方では字義を保存する。読者はどちらの読みを取るかを、内側の動詞が意志的かどうか、主語が同一かどうかといった条件から瞬時に判定しています。判定が割れる文が書けてしまうのは、書き手が二つの働きを混ぜたときです。腕の形を描写したつもりの一行が、そう見せようとした意図の記述として読まれることがある。動作を写したはずの文が、演技の報告に化ける瞬間です。
文法の側にも、この事情を裏づける癖があります。この句の中の動詞は、主節がどれだけ過去であっても過去形になりません。過去の場面を書いていても、内側は現在形のまま固定される。時制の対立が消えているということは、内側の部分がもう出来事として報告されていないということです。実際に起きた出来事なら時間軸のどこかに置く必要がありますが、比較のために持ち出された形には置き場所が要らない。読者が字義どおりに読まないのは、意味を推し量っているからだけでなく、語形の側がすでにその読み方を封じているからでもある。
同じ働きをする形式の中でも、それぞれ位相が違います。抱きしめるみたいに、と書けば口語の層に落ち、語り手は人物と同じ高さに立つ。抱きしめるかのように、と書けば文語寄りの層に上がり、語り手が明示的に判断を下している気配が出ます。中間にあるのが「ように」で、判断の主体をあまり感じさせないまま輪郭だけを渡せる。三つは意味の上ではほぼ同じことを述べていますが、語りの距離が別々に設定されている。人物の動作を写生したいのか、語り手の見立てを提示したいのかで、選ぶべき形は変わります。選び分けの基準は響きの好みではなく、その一行で語り手をどこに立たせるかです。三つを同じ場面に混ぜると、語り手の位置が段落の中で移動してしまい、読者は誰の目で見ているのか分からなくなる。同じ動作を書き分けているつもりで、実は語りの高さを書き分けている。
もう一つ、この語形は視点の位置を動かします。実際の動作を名指さないということは、書き手が動作の内側にいないということです。外から見て、輪郭がそう見えた、と報告している。だからこの言い方は、三人称の語りで対象の内面に踏み込まない姿勢と相性がいい。「幸せそうに笑った」が、幸せかどうかを断定せず表情だけを報告するのと同じ構造です。逆に一人称でこれを使うと、自分の動作を自分が外から眺めていることになり、書き手が意図しないところで距離が生まれる。混乱している人物、疲れきった人物の描写には効きますが、平静な語り手が使うと視点が浮きます。
もう一段ややこしいのは、この語形が緩衝としても働くことです。断定を避ける言い方は、丁寧さや遠慮の合図として読まれます。読者は、書き手が何かをためらっていると受け取る。一場面に一度なら、そのためらいは対象への繊細さになりますが、段落ごとに繰り返すと、語り手が何一つ引き受けていない文章になる。輪郭ばかりが並んで、中身が一つも確定しない。比喩の密度そのものより、断定を留保した回数のほうが、読後の印象を決めてしまうことがあります。使いどころは、実際の動作に名前がない瞬間だと考えるのが素直でしょう。抱いているのでも支えているのでもない、名づけようのない腕の置き方。そこにだけこの言い方を当て、名前のある動作には名前を使う。標識は、外したときにいちばんよく効きます。