淹れたての茶が冷めていくとき、温度の下がり方は一定ではありません。最初の数分で大きく落ち、そのあとはだんだん緩やかになる。物体と周囲との温度差に比例して熱が逃げるからで、差が半分になるまでに掛かる時間は、どの時点で計り始めてもほぼ同じになります。九十度の茶を二十度の部屋に置けば、まず七十度の差が縮み、次にその残りが同じ割合だけ縮む。だから理屈のうえでは、茶の温度が室温とぴたり一致する時刻は来ません。近づき方が割合で決まっている運動には、速いのに終わらないという、この奇妙な性質がついて回ります。
同じ形の運動を、数学は温度から切り離した形で扱います。距離を測れる空間の上に、点を点へ移す規則 f があるとします。この f が、どんな二点をとっても、移したあとの距離を元の距離の k 倍以下(k は 0 以上 1 未満の定数)に抑えるとき、f を縮小写像と呼びます。この条件を満たす規則には強い性質があり、空間が完備であれば、同じ点に f を何度も適用していくと、必ずただ一つの点に収束する。バナッハの不動点定理として知られている事実です。地図を実際の土地の上に広げると、地図上の一点が必ずその地点の真上に来る、という言い方で説明されることがあります。
この定義を言葉に戻すと、引き寄せるという動作の骨格がかなり正確に描けます。一回で到達しない。しかし毎回、残りの距離の一定割合を確実に削る。k が 0.8 なら、一回ごとに二割ずつ縮む。十回繰り返せば残りはおよそ 0.107、つまり最初の距離の一割強まで来ます。二十回で一割の半分をさらに下回る。減り方は速いのに、有限回では決してゼロにならない——この二つが同時に成り立つのが、縮小写像のいちばん面白いところです。近づき続けているのに、まだ着いていない。
腕の動作をもう少し分けて考えると、二つの別々の操作が混ざっていることに気づきます。囲うことと、引くこと。囲うほうは、両腕と胴で境界を作り、その内側を確保する操作です。数学でいえば、いくつかの点を含むいちばん小さい凸集合をとる操作、つまり凸包に近い。引くほうは、二点を結ぶ線分の上を、相手側の点へ向かって移動させる操作で、これは内分点をとることに相当します。境界を作る操作と、距離を縮める操作は別物です。この語形が指しているのは、明らかに後者のほうです。
そして「ような」が付くことで、写像の適用先が変わります。動作そのものではなく、距離を縮める性質を持った何か——声の調子、照明の当て方、言い回し、間の取り方——に、この性質だけが移される。数学の側から見れば、同じ縮小率 k を、別の距離空間へ持ち込んでいることになります。物理的な間隔ではなく、心理的な隔たりを測る尺度の上で、同じ規則を動かす。比喩とは尺度の乗り換えである、という言い方は、この場合かなり文字どおりです。
不動点定理には、忘れられがちな前提がひとつあります。空間が完備であること、つまり、いくらでも近づき合っていく点の列に対して、その行き先が空間の内側にちゃんと用意されているという条件です。有理数だけを取り出した世界を考えてみると、1.4、1.41、1.414 と続く列は互いにいくらでも近づいていくのに、行き着くはずの点はその世界に存在しません。近づき方の条件を満たしていても、収束先が外にあれば定理は働かない。物語にも同じ形の穴があります。隔たりは毎章きちんと縮んでいるのに、二人が到達すべき地点そのものが、その作品の制度や寿命の内側に置かれていない場合です。読者は縮小率のほうを正確に読み取っているので、着かないという事実だけが後に残る。悲劇の設計としてはそれで正しく、破綻として読まれるのは、書き手の側が穴の存在に気づいていないときだけです。
物語の設計に落とすと、扱うべき量は距離そのものではなく、一回あたりの縮小率のほうになります。二人の隔たりを毎章どれくらい削るか。削り幅を一定に保てば、読者は無意識に残りを計算し、収束の見当をつけます。逆に一度で隔たりをゼロにすると、そこで写像を適用する理由が消える——不動点に着いてしまえば、あとは何度動かしても同じ点に留まるだけです。長く続く関係を書くとき、書き手が管理しているのは近さではなく、近づき方の傾きだということになります。距離は読者が勝手に測ってくれる量で、書き手の側で決められるのは、一回あたりどれだけ削るかという定数のほうだけです。