駅の手洗い場や公園の水飲み場に貼られた掲示は、たいてい仮名で書かれています。きれいに使いましょう、きれいにお使いください。書いた人が字を選んだというより、選択肢が最初から一つしかなかったように見える書きぶりです。しかも掲示が使っているのは形容詞そのものではなく、「きれいに」という副詞の形で、状態ではなく行為の仕方のほうを指定しています。ところが同じ日に開いた小説の一行では、同じ音の同じ意味の語が漢字で立っている。それを読んで、表記が揺れているとは誰も感じません。掲示の側にも小説の側にも、そこに置くべき姿があらかじめ決まっていて、読む側もそれを承知している。表記の揺れというより、場所ごとに姿が割り当てられていると言ったほうが近いはずです。
新聞の紙面でこの語を漢字で見かけることは、ほとんどありません。理由は制度の側にあります。上の字は常用漢字表に採られておらず、一般向けの紙面ではそのまま使えない。そこで実際の紙面では仮名書きが選ばれるか、別の字に置き換えられます。置き換えに使う字のほうは常用漢字ですから、そちらなら漢字のまま立てられる。同じ語が、書かれる場所によって三通りの姿を持つ。日本語には表記の選択肢を複数抱えた語が多くありますが、日常語でこれほど頻度が高く、かつ三様が全部生きている例はそれほど多くない。
置き換えのほうにも由来があります。戦後、当用漢字表の外に出てしまった字を含む熟語について、同じ音の常用の字で書き換えるという方針が示され、多くの語が姿を変えました。編輯が編集に、聯合が連合になったのがその流れです。この語についても、上の字を同音の別字に替える形が書き換えの例として挙げられたとされています。読みは変わらず、意味も変わらない。変わったのは字の含む像だけです。
その像が何だったのかを見ておくと、置き換えの代償が分かります。本来の上の字は糸偏で、模様を織り込んだ絹、綾織りの布を指しました。つまりこの二字は、もともと織物の美しさを言う語です。清潔さでも整然さでもなく、糸が組み上げた模様の見事さを指していた。置き換え後の字が持つのは「めずらしい」「並外れた」という別方向の意味で、音は同じでも像は接続していません。表記を変えるとは、語義を保ったまま、その語がぶら下げていた連想を取り替えることでもあります。
ここには、日本語の表記の一般則から外れた位置があります。漢語は漢字で書くのが既定で、仮名に開くとかえって読みにくくなるのが普通です。せいけつ、ゆうび、たんれい——同じ意味の場所に立つ語を仮名にすると、どれも一拍遅れて意味に届きます。ところがこの語だけは、仮名で書いても読みが滞りません。使用頻度が高く、耳から先に覚える語だからです。字を使わせない制度の事情と、日常語としての頻度の高さが、たまたま同じ方向を向いた。その結果、漢語でありながら仮名書きが既定という、めずらしい位置に落ち着いています。そしてこの位置にいるおかげで、漢字を選ぶことがそれ自体で有標な行為になる。清潔と書く人は表記を選んでいませんが、この語を漢字で書く人は、必ず選んでいます。
品詞の話も表記と絡みます。この語はナ形容詞で、名詞を修飾するときは「な」を伴い、否定形は「ではない」を使います。ところが仮名で書くと末尾が「い」で終わるため、イ形容詞のように見える。「きれくない」という形を作ってしまう誤りは幼児の言い間違いとして知られていますが、大人でも一瞬迷うことがある。漢字二字プラス送り仮名なしの表記なら、語幹の切れ目が視覚的に確定するので、この迷いは起きません。表記の選択が、統語の見通しにまで影響しています。
書く側にとって、三つの姿の使い分けは事実上の文体宣言です。仮名書きは口語の速度を保ち、台詞や一人称の地の文になじむ。糸偏の字を立てれば画数が増え、その一語で行の重心が下がり、読者の視線が一拍止まる。置き換え字を選べば紙面の規範に従う姿勢が前面に出て、報道文や公的な文書の気配が混じる。どれが正しいという問題ではなく、同じ語で読者の走る速度を三段階に調節できるということです。ただし一作の中で揺らすと、調節ではなく校正漏れとして読まれる。使い分けを設計するなら、どの層で誰が書いた文字なのかを先に決めておく必要があります。作中人物の手紙と、その人物を外から描く地の文とで表記を変える——そこまで踏み込むと、表記は文体ではなく人物の属性になります。