新聞や公用文では、この形容詞はふつう仮名で書かれます。理由は制度的なものです。常用漢字表で「愛」に認められた読みは音の「アイ」だけで、「可愛い」という表記はいわゆる表外の読み方にあたるため、漢字使用を常用漢字表の範囲に揃える媒体では自動的に仮名書きが選ばれます。日常ではごくありふれた表記が、公の文書からは締め出されている——表記の世界には、こうした見えない線引きがいくつも走っています。
そもそも「可愛」という漢字表記は、語の成り立ちから見れば後付けです。この形容詞の祖先は古語の「かはゆし」で、漢語とは無関係の和語でした。「愛すべし」と読める漢語の「可愛」を、意味の近さを頼りに和語へかぶせた、いわゆる当て字です。ただ、当て字としては出来がよすぎました。「可」も「愛」も語の現代的な意味と響き合ってしまうため、多くの人がこの表記を本来のものと感じています。借り物の衣装が、いつのまにか正装として通用するようになった例です。こうした当て字の定着を支えたのが、明治から昭和初期の出版物に広く見られた総ルビの慣行でした。すべての漢字に振り仮名が付くなら、字面がどれほど凝っていても読みは保証されます。当て字は、ルビという安全網の上で咲いた表記文化だと言えます。
現代の書き手は、この語を書くたびに三つの選択肢の前に立ちます。漢字の「可愛い」、平仮名の「かわいい」、片仮名の「カワイイ」です。意味は同じでも、紙面での声が違います。漢字表記はやや硬質で、大人の語り口や客観寄りの地の文に馴染みます。平仮名は柔らかく、感情の温度がそのまま乗ります。片仮名は一歩引いた表記で、引用符に似た距離感をまとい、しばしば文化現象としてのkawaii——二〇〇〇年代以降、国境を越えて流通するようになったあの概念——を指す合図になります。同じ台詞でも、表記を替えるだけで発話者の年齢や温度が変わって聞こえます。
正確には、選択肢は四つあると言ったほうがいいかもしれません。片仮名が距離の合図なら、綴りをそのままローマ字に替える手もあります。海外の記事や商品名を引くとき、あるいはこの語が外でどう受け取られているかを書くとき、書き手はアルファベットを選ぶ。日本語の語でありながら、英語の文章の中でも訳されずに使われる語になったので、綴りだけで外からの視線が付いてきます。同じ台詞を四通りに書き分けられる語は、そう多くありません。ただし四つ目は距離が最も遠く、人物の口から出す表記としてはほとんど使えない。使えるのは、地の文が外の視点を借りているときだけです。一つの語に四つの入口があるということは、対象までの距離が四段階に刻めるということでもあります。
表記の選択には、声色とは別に、読む速度に関わる面もあります。日本語は語と語のあいだを空けないので、漢字と仮名が交替する場所そのものが語の切れ目の目印になっている。前後も仮名の文の中に「かわいい」と四字続けて置くと、その目印が消え、読者は仮名の連なりをいったんほどいてから語を取り出すことになります。逆に漢字で書けば、字面の濃い塊が一つ立ち、視線がそこで止まる。台詞のように仮名の割合が高い環境では、この差がはっきり出ます。柔らかく響かせたいのか、視線を止めたいのか。表記を選ぶ判断には、耳の側の理由と目の側の理由が別々にあります。しかも二つはしばしば逆を向く。柔らかく響かせたい台詞ほど仮名の割合が高くなり、その仮名の連なりの中で、この語は最も埋没しやすくなります。
仮名遣いの歴史も、この語には濃く残っています。歴史的仮名遣いでは「かはゆし」「かはゆい」と書かれ、語形も「かわゆい」が長く並存しました。「かはゆし」から「かわゆい」へ、さらに現在の形へ——語形の摩耗と表記規則の改定という二つの変化が重なって、今の姿があります。戦前の小説を復刻版で読むと、この語の周辺だけでも表記の地層が透けて見えます。時代物を書くとき、台詞に「かわゆい」を一度だけ置くと、それだけで時代の空気が立つのはこのためです。
つまりこの語は、意味を選んだあとに表記を選ぶという、二段階の設計ができる語です。視点人物が誰か、台詞か地の文か、対象への距離はどれほどか。無自覚な揺れは誤植に見え、設計された揺れは演出になる。複数の表記は複数の声色であり、混在させるなら混在の規則を自分で決めておく必要があります。その境目は、書き手が理由を言えるかどうかにあります。