明治六年、日本はウィーン万国博覧会に参加します。国家として本格的に出品する初めての万博で、そのとき現場が直面したのは、出品分類を日本語に置き換えるという事務作業でした。西洋側の分類表には、日本語に対応する語のない項目が並んでいた。このときの翻訳作業で「美術」という訳語が用いられたとされ、これが今日まで続く語の出発点になったと考えられています。制度上の必要が先にあり、語がその要請に応じて作られた。近代の日本語には、こういう順序で生まれた語がかなりの数あります。
訳語の需要は、その後も続きました。「美学」という語は、中江兆民が明治十六年から刊行した翻訳書の書名に用いられ、学科の名として定着していったとされます。美術、美学、審美——「美」の一字を核にした漢語が、短い期間にまとまって作られた。ここで起きたのは語の追加だけではありません。評価の中心語彙が漢字一字へ集約された結果、和語のほうは、その漢字の訓という位置に置き直されます。「美しい」と表記すれば、和語の音を保ったまま、近代の学術語と同じ字を借りることになる。同じ一語が、口の中では千年前と変わらない音で、紙の上では明治に整えられた体系の一部として現れる。この二重性は、いまも表記を選ぶたびに顔を出します。
その一方で、和語のほうははるかに古くから使われていました。ただし指していたものが違います。上代の「うつくし」は肉親への情愛を表す語だったとされ、平安期には小さいものへの慈しみが中心的な意味でした。枕草子の「うつくしきもの」に挙がるのは、瓜に描いた幼子の顔、雀の子、塵を見つけて拾い上げる二つ三つの子ども——今日の語感でいえば「かわいらしい」に近い。現在のような美的評価の意味が優勢になるのは、もっと後の時代のことです。同じ語形が、千年をかけて守備範囲を移した。
近代に起きたのは、この和語の上に制度が乗るという事態でした。学校で図画や唱歌が教えられ、博覧会や展覧会が開かれ、何が鑑賞に値するかを公的に選別する仕組みができる。美的な判断が、個人の趣味であると同時に、教育と展示の対象になった。すると評価語も個人の感想を超えた重みを持ち始めます。「これは美しい」という発話が、単なる好悪の表明ではなく、共有されるべき基準への参照として響くようになる。近代の評価語には、どこかに公的な後ろ盾の気配があります。
判断を公に確定させる場も、同じ時期に整えられていきました。明治十年、東京の上野で第一回の内国勧業博覧会が開かれます。全国から集めた物産を一堂に並べ、審査を経て、等級のついた褒賞を与える催しでした。並べて、比べて、順位を付ける。この手続きが定期的に繰り返されるようになると、良し悪しの判断は、個人が胸のうちで済ませるものから、書き出して残すものへ移っていきます。織物や陶磁の出来ばえについて、誰が何を根拠に上と決めたかが文書に残る。褒賞の記録が保存したのは受賞者の名前だけではありません。何を良いとするかという物差しのほうが、そのつど紙の上に固定されていきました。展示は一度きりの催しですが、審査の結果は残り、次の出品者はそれを読んで支度をします。基準が文字になった瞬間から、作る側もその基準へ向かって作りはじめる。
対象の側でも発見が起きました。志賀重昂の『日本風景論』が刊行されたのは明治二十七年、一八九四年のことで、これは山や海岸線を美的な鑑賞対象として論じた著作です。同時期に登山や旅行が広がっていったことを考え合わせると、風景を眺めて評価するという習慣そのものが、近代に整えられていった側面がある。それ以前の人々が自然に無関心だったわけではありません。ただ、名所や歌枕という文学的な枠組みを通さずに、地形そのものを直接評価するという構えは、近代的なものです。
このあたりは時代小説を書くときに実際の問題になります。中世の人物に山並みを眺めさせ、その感想を現代語で書くとき、どこまでが許されるか。語彙としての「うつくしい」は当時も存在しましたが、その語で風景を評価する構えが同じだったとは限らない。厳密な考証を全編に適用すれば読めない文章になりますし、無視すれば人物が現代人の顔をする。実務的には、地の文は現代語で通し、人物の口から出る評価語だけ時代の枠に寄せるといった、部分的な線引きが選ばれることが多い。語には成立した時代があり、それは調べれば分かる。調べたうえでどこまで崩すかを決める——考証とは、その判断の材料を集める作業です。