美しい

【うつくしい】形容詞

使い分けの視点

美しいの仲間には、麗しいや見目麗しいなど人の姿に向く語と、絵のようなや息を呑むようななど場面全体に向く語句があります。同テーマのエッセイは、この語がもともと肉親への情愛や小さなものへの慈しみを指し、美的評価の意味はあとから優勢になったと歴史をたどっています。人の姿か、風景か、雰囲気か。何をどのくらいの強さで評価するのかを決めると、文語と口語のあいだで言葉の格が定まります。

同義語

同品詞の類義語

麗しい文芸的
綺麗な
艶やかな文芸的
優美な文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

見目麗しい文芸的
目を奪うほどの

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

絵のような
透き通るような
息を呑むような

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

凛として文芸的
しっとりと

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

目を奪う
心を捉える

体言的言い換え

用言を体言に変換

麗姿文芸的
雅な佇まい文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

神々しい文芸的
眩いばかりの文芸的
目も綾な文芸的

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

かわいらしいエッセイ関連

例文: 妹の描いた絵を、家族はみな心からかわいらしいと褒めた。

うつくしきエッセイ関連

例文: 「うつくしきものかな」と呟いた貴族の視線の先に、雀の子がいた。

一八七三年の翻訳作業から——制度が語の守備範囲を変える

明治六年、日本はウィーン万国博覧会に参加します。国家として本格的に出品する初めての万博で、そのとき現場が直面したのは、出品分類を日本語に置き換えるという事務作業でした。西洋側の分類表には、日本語に対応する語のない項目が並んでいた。このときの翻訳作業で「美術」という訳語が用いられたとされ、これが今日まで続く語の出発点になったと考えられています。制度上の必要が先にあり、語がその要請に応じて作られた。近代の日本語には、こういう順序で生まれた語がかなりの数あります。

訳語の需要は、その後も続きました。「美学」という語は、中江兆民が明治十六年から刊行した翻訳書の書名に用いられ、学科の名として定着していったとされます。美術、美学、審美——「美」の一字を核にした漢語が、短い期間にまとまって作られた。ここで起きたのは語の追加だけではありません。評価の中心語彙が漢字一字へ集約された結果、和語のほうは、その漢字の訓という位置に置き直されます。「美しい」と表記すれば、和語の音を保ったまま、近代の学術語と同じ字を借りることになる。同じ一語が、口の中では千年前と変わらない音で、紙の上では明治に整えられた体系の一部として現れる。この二重性は、いまも表記を選ぶたびに顔を出します。

その一方で、和語のほうははるかに古くから使われていました。ただし指していたものが違います。上代の「うつくし」は肉親への情愛を表す語だったとされ、平安期には小さいものへの慈しみが中心的な意味でした。枕草子の「うつくしきもの」に挙がるのは、瓜に描いた幼子の顔、雀の子、塵を見つけて拾い上げる二つ三つの子ども——今日の語感でいえば「かわいらしい」に近い。現在のような美的評価の意味が優勢になるのは、もっと後の時代のことです。同じ語形が、千年をかけて守備範囲を移した。

近代に起きたのは、この和語の上に制度が乗るという事態でした。学校で図画や唱歌が教えられ、博覧会や展覧会が開かれ、何が鑑賞に値するかを公的に選別する仕組みができる。美的な判断が、個人の趣味であると同時に、教育と展示の対象になった。すると評価語も個人の感想を超えた重みを持ち始めます。「これは美しい」という発話が、単なる好悪の表明ではなく、共有されるべき基準への参照として響くようになる。近代の評価語には、どこかに公的な後ろ盾の気配があります。

判断を公に確定させる場も、同じ時期に整えられていきました。明治十年、東京の上野で第一回の内国勧業博覧会が開かれます。全国から集めた物産を一堂に並べ、審査を経て、等級のついた褒賞を与える催しでした。並べて、比べて、順位を付ける。この手続きが定期的に繰り返されるようになると、良し悪しの判断は、個人が胸のうちで済ませるものから、書き出して残すものへ移っていきます。織物や陶磁の出来ばえについて、誰が何を根拠に上と決めたかが文書に残る。褒賞の記録が保存したのは受賞者の名前だけではありません。何を良いとするかという物差しのほうが、そのつど紙の上に固定されていきました。展示は一度きりの催しですが、審査の結果は残り、次の出品者はそれを読んで支度をします。基準が文字になった瞬間から、作る側もその基準へ向かって作りはじめる。

対象の側でも発見が起きました。志賀重昂の『日本風景論』が刊行されたのは明治二十七年、一八九四年のことで、これは山や海岸線を美的な鑑賞対象として論じた著作です。同時期に登山や旅行が広がっていったことを考え合わせると、風景を眺めて評価するという習慣そのものが、近代に整えられていった側面がある。それ以前の人々が自然に無関心だったわけではありません。ただ、名所や歌枕という文学的な枠組みを通さずに、地形そのものを直接評価するという構えは、近代的なものです。

このあたりは時代小説を書くときに実際の問題になります。中世の人物に山並みを眺めさせ、その感想を現代語で書くとき、どこまでが許されるか。語彙としての「うつくしい」は当時も存在しましたが、その語で風景を評価する構えが同じだったとは限らない。厳密な考証を全編に適用すれば読めない文章になりますし、無視すれば人物が現代人の顔をする。実務的には、地の文は現代語で通し、人物の口から出る評価語だけ時代の枠に寄せるといった、部分的な線引きが選ばれることが多い。語には成立した時代があり、それは調べれば分かる。調べたうえでどこまで崩すかを決める——考証とは、その判断の材料を集める作業です。

文: hakadoru.ai 編集部

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