「華やかな人」は何の抵抗もなく言えます。「華麗な人」は、言えないことはないのに、どこか宙に浮く。ところが後ろを替えると事情が変わります。華麗な演技、華麗な転身、華麗な逆転、華麗な一族。どれも据わりがいい。同じ賛辞のはずなのに、人そのものに直接かけると座りが悪くなる語がある。
並べてみると、後ろに来るものの性質がそろっています。行為、技、経歴、家系、装い。いずれも人が生み出したもの、あるいは人が身にまとったものです。もう一段細かく試すと線がはっきりします。華麗な人生とは言えて、華麗な性格とは言いにくい。人生は軌跡で、外から見える形を持つ。性格は内側で、形を持たない。「華麗な女性」という言い方が成立するときも、褒められているのは装いか身のこなしであって、その人の存在ではありません。この二字は対象の表面と結果に係る——人格へは、産出物を経由してしか届かない。だから褒めても、褒められた側は自分が見られていないような手触りを受け取ります。
使われる場が偏るのは、この性質の帰結でしょう——式辞、紹介文、実況、批評、公演の惹句。どれも対象から距離を取った位置から発される言葉です。共起する語も場ごとにまったく違う。競技の実況なら回転や着地や連続技と並び、文芸批評なら構成や様式や過剰と並ぶ。語彙群は別なのに、褒めているのが「した結果」である点だけは共通しています。この二字をひとつ落とすと、その場の空気がどの媒体のものかまで一緒に運ばれてくる。運ばれることを知らずに使うと、地の文が急に紹介文の声になります。
近ごろよく見かける皮肉の用法も、同じ構造から出てきます。華麗な言い訳、華麗な棒立ち。褒めの形式だけをそのまま保って、中身を貶す。結果の見事さを言う語だからこそ、その結果が褒めるに値しないと読者が知っている場面に置くと、形式と中身が割れて皮肉になる。人格に直接かかる語ではこの反転はうまく起きません。存在を褒めてから否定するのは、ただの矛盾に見えるからです。
対語を探そうとすると、もう一つの偏りに行き当たります。反対の意味を挙げてみても、地味、質素、簡素、無骨といった語しか出てこない。これらはどれも状態や性質を指していて、結果の出来ばえを貶す語ではありません。つまり、この二字には正確な対がない。褒めるためだけに用意された語で、目盛りの反対側が空いている。空いているからこそ、否定形にすると妙な重さが出ます。華麗ではなかった、と書けば、失敗を述べたことにはならず、期待されていた見せ場が立たなかったという含みだけが残る。
和語との層差も同じ方向を向いています。きらびやか、はなやかは口語に溶けますが、この漢語は書きことばの格式を借りたままです。地の文を和語中心に組んでいる作品で、ここだけが突出すると、語り手の仮面がずれる。ずれを意図するなら視点の切り替えとして使えますし、意図しないなら雑音になります。若い人物の口に載せるなら、引用か冗談の枠に入れておくほうが安全です。枠なしで言わせると、読者はその人物を実際より年上に見積もる。
実務としての識別は、こうなります。この二字で人を褒めた者は、その瞬間に観客の席へ座る。恋人の席には座れない。だから告白の台詞には向かず、値踏み、皮肉、遠くからの敬意には正確に働きます。逆の使い道もあって、近いはずの相手にあえてこの語を選ばせれば、二人のあいだに開いた距離がそれだけで主題になる。褒め言葉が距離を測る道具として働く場面は、そう多くありません。