この句を英語に移そうとすると、最初の一歩で足が止まります。like a thread snapping と置いても通じはする。けれども英語の読み手は反射的に、では何の糸か、と考えます。thread なら縫い糸、string なら操り人形か楽器の弦、wire ならまた別のもの。日本語のほうは、そこを問わないまま先へ進んでしまえる。原文が答えていない問いに訳文だけが答えを迫られる——翻訳ではありふれた事故ですが、この句の場合は迫られ方が特に強い。
理由は構文にあります。「〜ように」は様態を示す形式で、その内部に主語や所有者を立てる義務がありません。「糸が切れる」という節はあるものの、この糸は文の外側の誰とも結びついていない。切れた一端が何につながっていたかを、日本語の側では未指定のまま置けます。英語で as if a thread had been cut と書けば、had been cut の背後に動作主の影が立つ。誰かが切ったのか、自然に切れたのか。受動を選んだ時点で、原文にない情報を足していることになります。
動詞の選び方にも、同じ傾向が出ています。日本語は出来事を自動詞で述べることを好み、英語は動作主を主語に立てた他動詞で述べることを好む。対照言語学が繰り返し取り上げてきた差です。皿が割れた、電池が切れた、紐がほどけた。誰がやったかを言わないまま、物のほうを主語に据えて出来事だけを報告できる。この句の中心にある動詞も、その型に属しています。切れるは自動詞で、切るという行為の結果状態を、行為者から離して述べる形です。だから比喩の内側に人が一人も現れなくても、文としては完成する。英語で同じ像を組み立てようとすると、切れたのか切られたのかを先に決めなければならず、決めた瞬間に、原文にはなかった人影が背後へ立ちます。
冠詞のある言語では、事情がもう一段こみいります。糸が切れるという像自体は珍しいものではなく、ヨーロッパの諸言語にも近い言い回しがある。ただ、名詞に定冠詞か不定冠詞かを選ばなければならない以上、訳者は「その糸」か「ある糸」かを決めることになる。定冠詞を選べば、読者がすでに知っているはずの糸ということになり、文脈のどこかにその糸を用意しておかなければ座りが悪い。冠詞という小さな装置が、比喩の背景まで規定してしまう。日本語がここで軽いのは、冠詞も数も義務ではないからです。
訳文が原文より説明的になりやすいという傾向は、翻訳研究のなかで繰り返し指摘されてきました。省かれていた主語が補われ、曖昧な指示が特定され、文と文の関係が接続詞として表に出る。多くは読みやすさのための調整で、訳者の力量とは関係がありません。ただ、未指定であること自体が中身になっている表現では、その調整が損失として効いてきます。何の糸かを決めた訳文は、原文より親切で、原文より情報が多く、そのうえで原文が写していた視界を失っている。訳しにくい句とは、多くの場合、訳すと増えてしまう句のことです。逆向きに、所有者を明示した外国語の一文を日本語へ移すときには、同じ装置が反対に働きます。原文にあった手が落ち、像だけが残る。訳文が原文より軽くなることも、まったく同じ理屈で起きるわけです。増減の向きを決めているのは訳者の趣味ではなく、どちらの言語が何を義務として課しているかのほうです。
とはいえ、この軽さを日本語の美点として片づけるのは早い。未指定であることは、書き手が像を持っていない場合と、持っていてあえて言わない場合とを、外から区別できないという欠点でもあります。凧の糸を思って書いた人と、操り人形の糸を思って書いた人の文が、同じ形になる——周到さと不用意さが同じ文面に落ちるわけです。読者はそれぞれ勝手な糸を思い浮かべ、たまたま噛み合う。噛み合わないときには、文が空回りしていることに書き手自身も気づけない。
それでも、この句が使われ続けてきた理由はやはり未指定にあるように思えます。人が力を失う瞬間、当人はその力が何によって保たれていたかを知らない。糸の両端を書かないことが、当事者の視界をそのまま写している。訳しにくさの所在は語彙ではなく、この「知らなさ」を文法のまま保持できるかどうかにある。使うときにも同じことが言えて、直前の段落でその人物を支えていたものを丁寧に説明してしまうと、糸の正体が読者に見えてしまい、句が急に平凡になります。説明を我慢した文の後ろでだけ、この比喩はまだ働く。