「叩き潰すような」と書いた一行を、あとでこの言い方に書き換えたことがあります。書き換えた理由をその場では説明できませんでした。どちらも壊すことを言っているし、字数も似ている。ただ、置いてみると後者のほうが場面に合った。合った理由を後から掘るのが、この文章の目的です。
二つの字を分けて見ると、手がかりが出てきます。前の字は米を意符に持ち、分けるという要素と組み合わさっている。細かく分かれたもの、という成り立ちです。後の字は石を意符に持ち、旧字体では碎と書かれた、石を打ち割ることにまつわる字です。つまりこの複合語は、二つの字が二つとも「細かくなった結果」の側を向いている。対して「破壊」を分解すると、前の字は石を割ること、後の字は土に関わる字で、指しているのは形が失われることです。片方は形の消滅を、もう片方は粒の細かさを言っている。書き換えたとき、無意識に選んでいたのは粒度のほうだったのでしょう。
もっとも、字源から現代の意味を導くのは危ない手つきです。字源はその字が作られた時点についての説明であって、現在の使用を規定しません。この字を使う人が米を思い浮かべているわけではないし、字源説そのものにも異説のある字は珍しくない。字の由来をそのまま語の意味の根拠にする論法は、途中で必ず飛躍します。
それでも捨てずに済むものがあります。字源とは別に、複合語の分解可能性は現代でも生きているからです。前の字も後の字も、単独の語として今も日常的に使われている。粉があり、砕くという動詞がある。二つとも透明なので、この複合語を選んだ書き手は、意味を分解しないまま、それでも「細かさ」の側に触れている。ゆえに含意は「壊れた」ではなく「元の形が推定できないところまで行った」になる。原型の残存が否定されているぶん、この言い方は取り返しのつかなさを含みます。
粒度という観点を持ち込むと、日常語の側にも似た段階があることに気づきます。つぶ、こな、くず、みじん。粒は形が保たれた単位、粉はもう形がない、屑は元の一部が残っている、微塵はさらに小さい。最後の語は、もともと極めて微細なものを指す仏教の用語から来ていると言われます。和語と漢語で語彙の段階が並行して発達していて、書き手は同じ現象について、どの段階の語を選ぶかを毎回決めている。原稿を直すときに手が動くのは、たいていこの段階の選び直しです。強さを上げているつもりで、実際には粒の大きさを変えている。
ここに「〜するような」が付くと、もう一段の操作が加わります。実際には何も粉砕されていない。壊れているのは声や視線や一言であって、物理現象は起きていない。動詞が比喩の道具に降格するわけですが、この降格が効くのは元の動詞が具体的で、身体で想像できるときに限られます。試しに抽象的な動詞を同じ形に入れてみると、「無効化するような」「否定するような」は比喩として何も立ち上がりません。読者の身体に参照先がないからです。比喩の強度は、元の動詞がどれだけ手や耳や膝に届くかに依存している。二つの字がどちらも物質を意符に持っていたことは、ここで効いてきます。字源が保証するのは意味ではなく、この語が最初から物を扱う語だったという出自のほうです。