数学者は、直感を裏切る反例をしばしば「意地悪な例」と呼びます。いたるところで細かく折れ曲がり続けるせいで、連続なのにどこにも接線が引けない関数——十九世紀にワイエルシュトラスが示した例は、「連続ならおおむね滑らかだろう」という素朴な期待を打ち砕きました。注目すべきは、この例が偶然に変なのではないことです。期待のいちばん弱い箇所を狙って、そこだけを突くように構成されている。人格を表す語がわざわざ数学に借用されるのは、この構造が悪意の構造とよく似ているからでしょう。
意地悪は、無差別な乱暴とは違います。相手が何を当てにしているかを知っていて、その当てが最も痛む一点を選ぶ。ゲーム理論には、自分の利得を犠牲にしてでも相手の利得を下げる選択を指す概念があり、意地悪行動と訳されることがあります。合理的な利己主義は自分の取り分を最大化するだけですが、こちらは差し引きで両者が損をする。それでも選ばれる。実験経済学で広く知られる最後通牒ゲームでは、不公平な分配案を提示された側が、自分の取り分ごと蹴ってしまう行動が繰り返し観察されてきました。損を承知で相手を罰する心の動きは、公正の感覚と地続きだと論じられています。悪意と正義感が同じ計算式の上に乗ることがある、という事実は、人物造形にとって小さくない示唆です。
計算機科学では、この発想がそのまま測定の道具になっています。アルゴリズムの性能は、平均的な入力ではなく最悪の入力——こちらの手順を知り尽くした敵が用意する入力——を想定して評価するのが基本です。乱数がもたらす不運と、敵対者が設計する最悪は、数学的に区別される。前者は確率で語れますが、後者はこちらの内部構造の知識を前提とする。意地悪が偶然の不幸より怖いのは、まさにこの点です。それはこちらを読んだ上で最適化されている。
同じ分野に、後出しの敵という考え方もあります。二十の質問で数を当てる遊びを思い浮かべてください。出題者が答えをあらかじめ決めず、どの質問が来ても残りの候補が最も多く残る側に「いた」ことにして答え続けると、回答者は理屈の上で最悪の回数を強いられます。ずるに見えますが、過去の返答と矛盾しない候補が常に残っている限り、嘘は一度もついていない。この後出しの敵を想定する論法は、アルゴリズムの限界を証明する道具として実際に使われています。腹黒い人物の台詞を書くときに応用が利く発想です。嘘を一つもつかせないまま、相手の選択肢を毎回いちばん狭い側へ誘導させる。読み返せば一貫していて、しかも悪意が立証できない。
小説に戻します。意地悪な人物とは、主人公にとっての反例生成器です。台風や事故は主人公が誰であっても同じように襲いますが、練り上げられた一手は、主人公の性格と弱点の情報を要求する。つまりその質は、作者が主人公をどれだけ深く描き込んでいるかをそのまま映す鏡になる。安い嫌がらせと高い一手の差は、要するに相手のモデルを持っているかどうかの差です。誰にでも通用する嫌がらせしか書けないなら、作者はまだ主人公の期待の構造を知らないということです。逆に、この人物にだけ刺さる一手が書けたとき、読者は加害者の知性と被害者の内面を同時に受け取る。悪意の解像度は、人物の解像度である。