ポケットの底から取り出したイヤホンの線は、たいてい結び目のような塊になっています。ほどくのに一分か二分。その作業のあいだ、線が自分に何かを仕掛けたと考える人はいません。歩くたびの揺れと、線の長さと、重力が、そのつど別の形を作っただけです。ところが同じ結果を誰かが意図して作ったとなれば、受け取り方は一変します。もつれという事態そのものは寸分違わないのに、意図が一つ加わるだけで、それは嫌がらせという名前を持つ。日本語の側も、この差をかなり律儀に区別していて、しかも区別の仕方が語彙ではなく形式に埋め込まれている。
「絡む」という動詞を単独で使うと、たいてい良くない意味になります。酔って絡む、些細なことで絡む。ところが「絡み合う」に変えると悪意は消え、「糸が絡む」まで戻せば、ただ物理的にもつれているだけになる。同じ語根から出た形が、これほど違う色を持っている。しかも辞書はどれも同じ見出しの下に並べます。並べられる程度には同じ語だという判断があり、しかし実際の使用では混ざらない。
語の意味が悪いほうへ傾くことを、意味変化の記述では悪化と呼びます。逆向きは良化。悪化のほうが起きやすいと言われることがありますが、これは観察の偏りかもしれない——目に留まるのは落ちた語だからです。それはさておき、この語で起きたことは全体の下落ではありません。落ちたのは自動詞の一部の用法だけで、複合形は落ちていない。変化が語全体にかからず、構文ごとに選択的に起きている。この選択性のほうが、悪化そのものより見応えがあります。
機構を想像してみます。「AがBに絡む」という格の型を取ったとき、Bは迷惑を被る側になる。人が人に絡む場面は、日常ではほぼ迷惑の場面です。使用の偏りが積もって、格の型ごと意味が染まる。一方「AとBが絡み合う」は対称的な格で、どちらも一方的な被害者にならない。「糸が絡む」は無生物主語で、そもそも意図が入り込む余地がない。意図の有無と格の対称性という二つの条件が、悪化の届く範囲を仕切っている——語の意味は語だけで動いたのではなく、構文とセットで動いた。
名詞にすると、この選択性はもう一段はっきりします。「絡み」という形は現代語ではほとんど中立で、仕事絡みで会った、事件絡みの人物、といった言い方に迷惑の含みは残っていません。ここでの「絡み」は関与や関連を指すだけの、事務的な語です。名詞化の段階で、動詞が抱えていた色が振り落とされている。他動詞の「絡める」も同じで、麺にたれを絡める、前の話題に絡めて切り出す、といった用法に責める調子はありません。動作主がはっきり立っているのに悪くならない形もあるわけで、条件は一つではなさそうです。並行する例は「たかる」にも見えます。蟻が砂糖にたかると言うとき、そこに非難はありません。ところが人が人にたかると言った途端、金をせびるという意味が立ち上がり、話し手は相手を責める側に回る。主語が意図を持てる位置にいるかどうかが、ここでも境目になっている。悪化が語の中心で一度起きて全体へ及ぶ、という描き方はここでは使えません。語が入る形式ごとに、届く先と届かない先が細かく仕分けられている。
似た経路をたどった語に「縺れる」があります。こちらは物理的なもつれから、舌が縺れる、足が縺れるという身体の失調へ、さらに関係が縺れるという事態へ広がりました。広がった先はどれも「うまくいかない」を含みますが、悪意までは含まない。「絡む」との差は、動作主を立てられるかどうかにあるように見えます。縺れるは自発の色が濃く、誰の仕業でもない。責任の所在があるかないかが、語の色を決めているのかもしれません。もっとも、これは現代語の語感からの推測で、そう変化したことを示す資料を挙げられるわけではない。
そう考えると、この連体修飾句の使い勝手が見えてきます。書いた瞬間、読者はまず糸という物理の像を受け取りますが、動詞の悪い意味の記憶は薄く残ったままです。人間関係を指してこの句を使うと、単なる錯綜と、誰かの意図的な干渉との間で、意味がわずかに揺れる。揺れは曖昧さでもあり、書き手が選べる幅でもある。前後に意図を持った人物を置けば干渉寄りに、偶然や無生物を置けば錯綜寄りに傾きます。句そのものは一字も動かさず、周囲に何を置くかだけで色を変えられる。制御の手がかりが句の内側ではなく外側にある、というのは扱いやすい性質です。逆に言えば、配置に無頓着なまま置くと、読者がどちらに読むかは制御できません。