今日は陽気がいい、という言い方は今も生きています。この陽気は人の性格ではなく、その日の気候そのものを指しています。一方で、対になっているはずのもうひとつの語には、この用法が残っていません。今日は陰気が悪い、とは言わない。対語として並んでいるのに、片方だけが気象の意味を保ち、片方だけが人と場所の印象へ移った。この非対称が、しばらく気にかかっていました。
もとをたどれば、どちらも自然哲学の術語です。世界を構成する気に陰と陽の二相があるとする考え方から来ていて、陰は冷たく湿り沈む方向、陽は温かく乾き昇る方向を指しました。季節も方角も体調も、この二つの配分として語られた。気という字を持つ語が日本語に多いのは——元気、病気、湿気、気配——この枠組みが生活語彙の深いところまで入り込んだ名残だと考えられています。つまりこの語は、はじめは人柄の話ではまったくなかった。
移動が起きたのは、抽象的な気の配分が、目に見える環境の印象へ、さらにそこにいる人の様子へと写されていく過程でしょう。日の差さない部屋と、口数の少ない人が、同じ形容で括られるようになる。同時に価値づけも動きました。もともとの陰は悪でも劣位でもなく、陽と対等な一相だったはずです。それが、望ましくない方の極として固定されていく。意味の悪化と呼ばれる変化が、対になった二語の片方だけに起きたことになります。
ただ、消えたと言い切ると言い過ぎになります。陰気な天気、陰気な午後、という言い方は今でも成立する。だとすれば気象の意味は残っているのではないか。ここで一度立ち止まると、違いが見えてきます。陽気がいいと言うときの陽気は、温度や日差しという外の事実を指している。対して陰気な天気と言うときに述べているのは、天気そのものではなく、その天気が人に与える感じのほうです。事実の側から、印象の側へ。片方は外に留まり、片方は内側へ全面的に引っ越した。
価値づけが動いた証拠は、この語に付く接辞のほうにも残っています。陰気くさい、という言い方は成立しますが、陽気くさいとは言いません。臭いを意味するこの接辞は、面倒くさい、古臭い、素人臭いのように、話し手が望ましくないと見なしているものにだけ付きます。付ける側があらかじめ評価を済ませていなければ、この接辞は働かない。つまり、接辞が付けるかどうかを見るだけで、その語が価値の目盛りのどちら側に固定されているかが判定できることになります。対語の片方だけがこの接辞を受け入れるという事実は、二語がもう対等ではなくなったことを、意味の説明を待たずに示している。
書き手にとって重要なのは、この語がもう客観記述の道具ではないという一点です。人物や部屋をこの語で括った瞬間、そこには誰かの判断が入っている。それが語り手の判断なのか、視点人物の判断なのか、決めずに置くと、地の文の立ち位置がぶれます。逆に、判断の主を明示できる場面——他人の第一印象、噂話の再現、後年の回想——では、この語は短く強く働く。千年前に世界の半分を指していた語が、今は誰かの感じ方の名札になっている。使うなら、その名札を誰が貼ったのかを自分で分かっていたほうがよい。