矢に射抜かれた人を実際に目にしたことのある読者は、まずいないはずです。弓が戦場の主力だった時代は遠く、いま弓に触れるのは競技としてか、祭礼の場でくらいでしょう。それでもこの比喩は、注釈なしで通じます。比喩は身体経験に支えられていると言われることがありますが、ここではその説明があまり効かない。支えているのは矢の記憶ではなく、この語の結合が長く繰り返されてきたという事実のほうです。使われた回数が、経験の代わりに根拠を肩代わりしている。そして肩代わりが進んだ結合は、意味の側からは動かせなくなります。矢を知らなくても使えるということは、矢のほうを詳しく書き足しても、この句の働きは強まらないということでもある。
この連体修飾句が付く名詞を思い浮かべると、驚くほど狭い範囲に集まります。視線、目、眼差し、瞳、まなざし。せいぜい一瞥まで。それ以外はかなり苦しい。手紙にも、質問にも、拍手にも付けられなくはないけれど、付けた瞬間に文章が作り物めいてくる。ここまで強く共起相手を選ぶ表現は、もう意味の問題ではなく、文法の問題に近づいています。使えるかどうかが、書き手の判断ではなく規則の側で決まりかけている。
中身を分解すると、動詞に「抜く」が後接した複合動詞です。この後項は二つの働きに分岐していて、「やり抜く」「勝ち抜く」では最後までやり通すという完遂を、「射抜く」「刺し抜く」では対象を貫通することを示す。同じ形態素が、前項の性質に応じて別の意味へ振り分けられている。前項が物理的な貫入を含むなら貫通、含まないなら完遂——分岐の条件はおおむねそこにあるようですが、「見抜く」のように貫通の像を比喩として保ったまま完遂寄りに読める例もあり、境界はきれいではありません。この曖昧さが、比喩としての伸びしろになっている面もあります。
気になるのは時制です。この句は非過去形を取る。過去の場面を語る文脈でも「射抜くような視線を向けられた」と書き、「射抜いたような」とは普通言いません。連体節の時制は主節に対して相対的に決まるという説明もありますが、ここではもっと単純で、比況の「ようだ」が指しているのは実際に起きた出来事ではなく、想定された事態だからでしょう。現実に起きていない事態には、現実の時制を付けようがない。時制を持たないことが、この句を出来事の流れから切り離し、比喩として安定させています。
では「ような」は何をしているのか。外して「射抜く視線」と言うこともできます。言えるなら冗長なはずですが、外した形はむしろ落ち着かない。断定が強すぎて、視線が本当に何かを貫通したように読めてしまう。「ような」は比喩であることの明示であり、同時に断定の緩和でもある。ただし、ここまで結合が固まると、緩和という機能はもう働いていないかもしれません。緩和が慣用化すると、緩和として感じられなくなる。この句はおそらく、句としてではなく、ひとつの語として処理され始めています。
外すかわりに、別の比況形式へ入れ替えてみることもできます。「射抜かんばかりの視線」は、まだ射抜いていないという事実を形式そのもので宣言する。寸前で止まった状態が明示されるぶん張力は上がりますが、文語の匂いが出るので、乗せられる地の文は限られる。「射抜くかのような」は「か」が一つ増えるだけで対象との距離が開き、語り手が観察者の側へ半歩下がる。「射抜くごとき」まで行けば、もう比喩ではなく文体の宣言です。連体形をやめて「射抜くように見た」と連用にすれば、係る先が名詞から動詞へ移り、修飾されるのは視線ではなく見るという行為のほうになります。比喩の中身は変わらないのに、係り先だけが乗り換える。比況の形式は意味を入れる器ではなく、距離の目盛りとして働いている。この句の「ような」が透明に見えるのは、その目盛りのちょうど真ん中に置かれているからでしょう。
一語として固まった表現は、文法的にも動かせなくなり、動かせないものは読者の目を素通りします。壊す方向はいくつかあって、後項を替える、被修飾語をずらす、比況の形を捨てて出来事として書く——どれも、固まった組み合わせのどこか一箇所だけを外す操作です。全部を変えれば別の表現になってしまい、比喩としての足場も一緒に消える。手垢を落とす作業は、独創よりも、一箇所だけ外して残りは残すという加減の問題として立ち現れます。