「切」という字の右側は刀です。左の「七」については、音を示す記号にすぎないとする見方と、古い字形が横棒を縦に断ち切る形であって切断そのものを表していたとする見方があり、どちらとも決めきれていません。後者を採るなら、この字は音と意味の両方を左半分から受け取っていることになります。説の当否はさておき、字の中心に刃があることだけは動かない。ところが現代語でこの字を含む語を並べてみると、実際に物を断つ意味で使われるものは半分もありません。切実、痛切、親切、切望、一切——刃はいつのまにか、心の側へ向き直っています。
漢語の「切」には、断つ意のほかに「差し迫る」「身に迫る」という用法が古くからあります。「切に願う」の切がそれです。皮膚のすぐ内側まで刃先が来ている、という感覚が、そのまま強度をあらわす副詞になった。和語の形容詞「せつなし」にこの字が当てられたのも、その延長線上のことだと考えられています。古い用例では、胸が塞がって息が続かないような身体的な苦しさを指すことが多く、飢えや病の苦痛にも使われたとされます。今日この語が持っている、甘さを含んだ痛みは、そのあとに育った層です。身体の苦しさが心の痛みへ移り、さらに、失われたものへ向かう感情そのものの名前になった。
一覧の中で最も遠く見えるのは親切でしょう。この語の切も、切ることとは関係がありません。親しく身近に接する、という組み立てで、切のほうが身に迫る側の担当です。切実、切迫、痛切も同じで、どれも刃で何かを断ってはいない。距離がゼロに近いこと、猶予が残っていないことを、刃先の近さという像で言い換えている。字の中心に置かれた刃は、断つための道具というより、対象と自分のあいだにどれだけ隙間があるかを測る目盛りとして働いてきたことになります。だとすれば、字義の変化を「刃が心へ移った」と言うのは少し雑で、測るための像はそのままに、測られる対象が物から心へ移ったと言うほうが近い。この見出し語の せつ も、その目盛りの上に乗っています。
和語側の作りにも、見落としやすい仕掛けがあります。せつなし の なし を、無いことの なし と読みたくなりますが、そうではないという説明が一般的です。はしたなし、せわしなし、いとけなし——これらの なし は否定ではなく、状態が甚だしいことを示す接尾辞だとされます。はしたない は端が無いのではなく、中途半端さが目立つこと。この語も同じ作りで、身に迫る感じが甚だしい、という組み立てになる。否定に見える形が実は強調である、という逆転は日本語のあちこちに残っていて、表記の側もそれを裏づけます。切ない を 切無い と書く形が定着しなかったのは、書き手たちが なし を否定として扱ってこなかったからでしょう。語形だけを眺めて意味を推せない例です。
三つめの層が「げ」です。この接尾辞は名詞の「気(け)」に由来するとされ、形容詞の語幹に付いて「そのように見える」という様態を作ります。ここが肝心で、「げ」は内側からの報告ではなく、外側からの推定です。悲しい、は当人の申告。悲しげ、は誰かがその人を見て下した判断。だから「げ」の付いた語は、文の中に必ず観察者をひとりぶん連れてきます。一人称の地の文で「私は切なげに笑った」と書くと据わりが悪いのは、自分で自分を外から眺めている構図になってしまうからです。
もうひとつ、この接尾辞は付く相手を選びます。うれしげ、寂しげ、不安げ、得意げ、所在なげ——語幹に来るのは、内面や情動にかかわる語ばかりです。赤げ、高げ、四角げとは言えない。外から測れる属性には付かず、外からは測れないはずのものにだけ付く。この偏りは一見あべこべですが、接尾辞の仕事そのものを示しています。見えないものを、見えたことにする。眉の寄り方や声の途切れといった表面の証拠から、内面を推し量る手続きに、日本語はひとつの音節を割り当てているわけです。だから「げ」の多い文章は、人物の心が濃いのではなく、語り手の視線が濃い。
刃物の字が身に迫る痛みになり、痛みが感情の名になり、その感情がさらに、外から観察される兆しの位置まで押し出される。四つの音の中に、この三段の移動がそのまま畳み込まれています。小説の中でこの語を置くとき、書き手が決めているのは人物の心ではありません。決まるのは、それを見ている誰かが、どのくらいの距離に立ち、どこまでを断定しないでおくか——その一点です。