全文検索の索引には大きく二つの作り方があります。ひとつは形態素解析器で文を単語に切り、その単語を索引語とする方式。もうひとつは、文字列を機械的に二文字ずつなどに切り刻んで索引する N-gram 方式です。日本語の検索エンジンが両方を用意していることが多いのは、この二つが得意な領域を分け合っているからです。そして、慣用的な連語というものは、前者にとって扱いにくい対象になります。この修飾句を解析器に通すと、動詞と助動詞相当の要素と活用語尾に分かれ、句としての単位はどこにも残りません。
単語索引の側にも、句を扱う工夫はあります。索引に語の位置番号まで記録しておけば、隣り合う二語を一続きの句として問い合わせられる。ところが、この修飾句を句として登録しようとすると、活用の壁に当たります。突き抜けるような、突き抜けそうな、突き抜けた——意味の核が同じ形どうしが、文字列としては別物です。検索システムはここで見出し語化という処理を挟み、活用形をいったん辞書形へ畳んでから索引に入れます。畳んだ結果として、比況の「ような」と過去の「た」の差は消えてしまう。索引の中では、実際に何かが貫通した文と、貫通していないと明示している文とが、同じ見出しの下に並ぶことになります。書き手が最も気を遣った一語が、機械の側では最初に捨てられる要素だった、という順序の食い違いがここにあります。
分割そのものは正しい処理です。文法的にはたしかに複数の形態素の連なりであって、辞書の見出しに立つ一語ではない。ところが、読み手の頭の中ではこれは一個のかたまりとして流通しています。意味も、構成要素の意味の合成からはややずれる。実際に何かを貫通したわけではなく、上方向の遮蔽物が存在しないという状態だけを指している。構成部品に分解すると失われるこの手の余剰を、索引の側でどう保持するかは、検索システムの設計における古典的な悩みどころです。N-gram 索引なら文字の連なりとして拾えますが、今度は無関係な文脈の断片まで大量に拾ってしまう。精度と再現率のいつもの取引になります。
編集距離という尺度を持ち込むと、別の角度が見えます。二つの文字列の間で、一文字の挿入・削除・置換を何回行えば一方を他方に変えられるか、という距離です。この句と、頭の二文字を落とした短い形との距離は二。文字列としてはごく近い。しかし読み比べると、短い形は透明度や質感を言うことが多く、こちらは方向と距離を伴います。二回の編集で意味の軸がひとつ増える。表層の距離と意味の距離は比例しない、という当たり前の事実が、この対では珍しくきれいに観察できます。
情報量という語には、圧縮の側から与えられた定義もあります。ある記号の情報量は、それが現れる確率の対数に負号を付けた値で、頻繁に現れるものほど小さい。圧縮の実装は、この値におおよそ比例した長さの符号を割り当てます。よく出るパターンには短い符号を、めったに出ないパターンには長い符号を。だから文章を機械にかけると、決まり文句は例外なく短く畳まれます。読み手の側も似た経済で動いていて、先の読める連なりでは目が滑り、読めない連なりでは速度が落ちる。圧縮率の高い表現は、読者の記憶にも短くしか残りません。符号の短さは、運んでいる中身の少なさをそのまま映しています。代価を払うのは書き手ではなく、読者の注意のほうです。連語が索引から漏れることと、決まり文句が印象から漏れることは、別の現象ですが、同じ量が背後にあります。
型の観点も置いておきます。比況の形式は、それ自体では値を持たず、修飾される名詞を受け取って初めて具体的な像を返す。関数のようなふるまいをします。空を受ければ遮蔽物の不在に、声を受ければ抜けのよさに、笑顔を受ければ屈託のなさになる。同じ形式が引数の型によって別の出力を返すのは、多相と呼ばれる性質そのものです。厄介なのは、この形式が受け取れる引数の範囲が広すぎることで、範囲が広い関数ほど、呼び出す側は出力を予測しにくくなります。
この句が手垢のついた表現として扱われがちな理由は、そこに戻ります。実際の文章では引数がほとんど一種類に固定されている——空、あるいは青空。共起の分布が極端に偏った表現は、読者の予測が当たりすぎて情報量を持ちません。使うのであれば、偏りの外側の名詞を渡すか、遮蔽物のない状態のほうを具体的に描いて、この形式そのものを呼ばずに済ませる。索引に残らないものは、読者の記憶にも残りにくい。