字義どおりに受け取れば、それは怪談です。肌の向こうに背景が見えているという記述になり、血管も骨も透けていることになる。しかし、その表現を読んで恐怖を覚える読者はいません。誰も文字どおりには読まないと分かっていて書かれ、実際に誰も文字どおりには読まない。この共犯関係が安定して働いているかぎり、表現の奇妙さは表に出てきません。
安定を支えているのは、末尾の比況の形式です。「ような」が付いていることで、書き手は「これは文字どおりの記述ではありません」という標識を自分で立てている。標識があるおかげで、実際にはあり得ない属性を持ち出しても嘘とは受け取られない。逆に標識を外して「透き通った肌」と言い切ると、字義解釈の圧が少し上がります。上がるといっても破綻するわけではなく、読者は解釈の調整を一段多く行うことになる。その一段が、緊張として働く場合もあれば、単に読みにくさとして働く場合もある。
こうした現象は語用論の古典的な説明の対象で、グライスが定式化した会話の格率——とりわけ、偽と思うことを言うなという質の格率——を表面上破りながら理解が成立する事例として扱われてきました。聞き手は、話し手が協調的にふるまっているはずだという前提を保ったまま、字義解釈を捨てて別の意味を計算する。比喩とは、格率の意図的な違反が計算の合図になる仕組みだ、という説明です。重要なのは、計算が働いているあいだは表現が生きているという点でしょう。
同じ標識が、丁寧さの調整にも使われていることは見落とされがちです。断定を避ける形式は、事実の記述だけでなく人物評価にも転用されます。頑固だと書けば断定になり、頑固なようだと書けば判断の責任が一段軽くなる。比況と推定は形式を共有しているため、婉曲の装置としても働く。褒め言葉に比況が付きやすいのは、対象を過剰に規定してしまうことへの回避が働いているからかもしれません。断定的な賛辞は、相手を一つの型に閉じ込める危険を伴う。標識はその危険を薄めます。
計算が省略されるようになると、事情が変わります。何度も目にした比喩は、そのつど意味を導出されるのではなく、まとまりごと辞書項目のように参照されるようになる。手垢がつくという言い方で呼ばれる現象は、この省略のことだと考えられます。実際、この表現が指しているのが何なのかを問われると、答えは一つに定まりません。白さなのか、濁りのなさなのか、内側の見えなさなのか、光の当たり方なのか。曖昧なまま慣用として流通し、曖昧であるがゆえに便利で、便利であるがゆえに情報量を失っていく。
曖昧さの内訳をもう少し分けておくと、対処の見当がつきます。透過という現象は、光が物体を通り抜けることであって、白さとも滑らかさとも別の性質です。ところが慣用の中では、この三つが束になって運ばれている。束のまま使うかぎり、どの成分が効いているのかは書き手にも読み手にも分かりません。束を解くと、たとえば光が通ることだけを取り出す道と、濁りがないことだけを取り出す道が分かれ、選んだほうに応じて置くべき具体が変わってくる。
書く側の対処は、標識を外すことではありません。外すと今度は字義の圧が上がるだけで、陳腐さは残ります。有効なのは、比況が空欄にしている次元を一つだけ指定してやることです。光にかざした指の縁がわずかに赤いと書けば、透過という属性は具体的な観察に戻り、読者は計算を再開する。次元を指定するかわりに、比較対象のほうを日常から外す手もある。いずれにせよ、この形式が担っているのは誇張の許可であって、誇張の中身ではない。中身は毎回、書き手が持ち込むことになります。