釘を抜く。栓を抜く。トンネルを掘り抜く。動詞「抜く」の原義は、埋まっているものを引き出すこと、そして障害物を貫いて向こう側へ達することです。この物理的な手応えは、複合動詞の後ろの要素になっても消えません。「射抜く」では矢が的を貫き、「撃ち抜く」では弾丸が壁の向こうへ届く。ところが「見抜く」となると、視線は物理的には何も貫いていない。それでもこの語を使うとき、書き手と読み手は、まなざしがある種の貫通力を持つという了解を共有しています。この了解がどう育ったかを遡ると、語の意味変化の典型的な道筋が見えてきます。
「抜く」を後ろに持つ複合動詞には、二つの系統があると整理されています。一つは「突き抜く」「射抜く」のような貫通の系統、もう一つは「走り抜く」「耐え抜く」のような完遂の系統——最後までやり通すという意味です。完遂の用法は、空間を貫いて反対側へ達するイメージが時間の軸に転用されて生まれたと考えられています。距離を貫けば「向こう側」に出るように、時間を貫けば「終わり」に着く。「見抜く」は前者、貫通の系統に属します。ただし貫かれるのは壁でも的でもなく、表面と内実のあいだに横たわる層です。
意味変化には方向性がある。具体から抽象へ、身体から心理へ——逆向きの流れはめったに起きません。この動詞の目的語の広がりも、その一方通行に沿っています。まず物の真贋。鑑定の場面で、うわべの細工を通して素材や来歴を見る。次に人の本性。取り繕った態度の奥にある性根や器量を見る。さらに進んで、状況の構造や意図。嘘、正体、企み——目的語の位置に来るのは、いつも誰かが隠そうとしたものです。隠す意志のないものには使いにくい。晴れるか降るかをこの動詞で言い当てるのがやや不自然なのは、空が何も隠していないからでしょう。共起の制限は、こうして長い使用の中で彫り込まれていきます。
ここで自分の整理に疑いを差し挟んでおきます。貫通のイメージが生きているというなら、なぜ「見通す」との住み分けが起きるのか。「通す」もまた向こう側へ達する動詞で、貫通の系統に属します。それでも両者は交換できない。先の展開を言い当てるのは「見通す」で、隠された本心に届くのがもう一方です。前者が越えるのは距離であり、後者が越えるのは厚み。同じ貫通でも、越える対象の次元が違う。この差は語釈を並べても出てこず、実際の目的語を集めてはじめて輪郭が見えてくる類のものです。系統に分けたところで説明は終わらず、そこからもう一段の観察が要る。
近い意味の語と比べると、それぞれが別の比喩を抱えていることが分かります。「見破る」は破壊です。表面を破って中身を暴く。漢語の「看破」も同じ「破」の字を含みます。一方「見抜く」は貫通であり、表面を無傷のまま通過する。破られた場合、相手は破られたことに気づく。抜かれた場合、表面はそのまま残るので、見抜かれた側は気づかないことすらありうる。小説でこの動詞を与えられた人物がしばしば静かで、その場では何も言わないのは、語が抱えた物理イメージと釣り合っているからだと考えられます。使う本人が来歴を意識していなくても、長い使用が語に残した手触りは、文の質感として読み手に届く。語の履歴は消えない。それが、言葉を時間の軸で眺めることの実益です。