英語に移そうとして手が止まる語がいくつかあって、これはその一つです。hard、painful、tough、rough、difficult——どれも一部だけ当たって、残りがこぼれる。困難の度合いを言いたいのか、痛みを言いたいのか、耐える側の姿勢を言いたいのか、日本語の側では決めないまま一語で済ませていたことに、訳そうとして初めて気づかされます。
逆方向から見ると、分節の線がどこに引かれているかが見えてきます。英語の painful は、身体の痛みと心の負荷の両方を覆う。日本語はそこを「痛い」と「つらい」で分けているように見えますが、「胸が痛い」と言えるのだから、この分割線も綺麗ではありません。漢字の側はさらに別の切り方をしていて、この字は中国語では味覚の刺激を担い、労苦の意味は「辛苦」のような熟語で現れます。日本語はその字を借りたうえで、「からい」と「つらい」という二つの読みに割り振った。字を共有し、音で分ける。訳者は字の縁を捨てて、音が指している方だけを選ぶしかない。
一語に対して一語を当てようとするから詰まるのだ、という反論はあり得ます。翻訳の議論では、置き換えの単位を語ではなく文や段落に取り、受け手に同じ効果を起こすことを等価とみなす考え方が古くから提案されてきました。その立場からすれば、この語をどう訳すかという問いの立て方自体が誤りで、その人物が何をどれだけ抱えているかが読者に伝わればよい。実務としてはその通りだと思います。ただ、単位を上げて解決した気になると、語の側が何を一語で束ねていたのかは見えないままになる。束ね方の癖こそが、ここでは見たいものでした。
もう一つ、訳したときに確実に動くものがあります。人称です。この形容詞は、話し手が自分の内側について言うときには何の抵抗もなく使えますが、他人に向けると座りが悪くなる。「彼はつらい」は落ち着かず、「つらそうだ」「つらいらしい」と、推量や伝聞の標識を足したくなる。英語の He is miserable にはこの抵抗がありません。だから日本語から訳すと、内側からの報告が外からの観察に変わる。視点が一段、人物の外へ出るのです。
ただ、この制限は語そのものに貼り付いているわけではないようです。「彼にはつらい役だった」なら通る。主語の位置に人ではなく事柄を置き、人を「に」で受ければ、三人称でも抵抗は消えます。つまり制限がかかっているのは語ではなく構文の方で、誰の内面を直接名指すかという配置の問題だった。ここを取り違えると、「三人称では使えない語」という覚え方をして、書ける文まで捨てることになります。
書く側にとって効くのは、この視点の高さです。地の文に「つらかった」と置けば、その一文のあいだ語りは人物の内側に固定される。三人称の語りで視点人物以外の苦痛を書こうとして同じ語を使えば、視点は気づかれないまま滑ります。訳すときに視点が外へ出るのと同じことが、同じ言語の中でも起きているわけです。逆に言えば、視点を移したいのに移し方が分からないとき、この語を出し入れするだけで高さは変えられる。訳しにくさの所在は語彙の欠落ではなく、日本語がこの語に、話者の位置を報告する役目まで負わせているところにありました。