貫く

【つらぬく】動詞

使い分けの視点

「貫く」は板を通り抜けて傷つける物理用法と、信念を損なわず保つ抽象用法を同じ形で担います。近い段落に両方を置くと意図せぬ掛詞になります。物理なら経路と変形、抽象なら抵抗と持続を具体化して読みを定めます。

同義語

同品詞の類義語

貫通する文芸的
穿つ文芸的
縦断する文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

端から端まで抜ける
一筋に通す文芸的
突き抜ける

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

光の矢のような文芸的
風が森を裂くような文芸的
稲妻が落ちるような文芸的

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

一直線に
深く文芸的
最後までcolloquial

体言的言い換え

用言を体言に変換

貫通文芸的
縦断文芸的
一筋文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

端まで突き通す
信を曲げず通す文芸的
矢で胸を射抜く文芸的

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

筋を通すエッセイ関連

例文: 自分に不利な証言でも筋を通すため、判事は議事録へ残した。

板と初志——同じ助詞が正反対の役割を配る

「矢が板を貫いた」と「彼は初志を貫いた」。この二つを並べて眺めていると、だんだん落ち着かなくなってきます。動詞は同じ、助詞も同じ「を」です。ところが目的語に起きていることが正反対なのです。板のほうは穴があき、二度と元には戻りません。初志のほうは何も損なわれず、むしろ無傷のまま保たれたことが賞賛されている。壊す用法と、守る用法——ひとつの動詞がこの両方を平然と抱えていて、日本語話者はそれをまったく問題視していません。

助詞のほうから考えてみます。「を」には移動の経路を示す用法があります。道を歩く、橋を渡る、峠を越える。この系列で読めば、板は矢が通り抜けた経路です。ただし板は経路であると同時に、変形を被った側でもある。経路であって被害者でもあるという二重性は、通り抜けというできごとの物理そのものに由来していて、文法だけの話ではありません。では初志はどうか。初志は経路ではない。誰かがそこを通り抜けたわけではないからです。ここで引っかかります。同じ格助詞なのに、片方は経路で、片方は経路ですらない。

二つに割る前に、用法をひとつ数え落としていました。南北を貫く街道、市街を貫いて流れる川、建物を貫く吹き抜け。ここでは何も壊れていないし、何も守られていません。細長いものが空間を端から端まで占めているだけです。主語は動いてすらいない。街道は走らず、ただそこに横たわっている。動作ではなく配置を述べる用法で、この種の述語を延在の表現として扱う考え方があります。第三の枝を挟むと、両端の距離が縮みます。矢は実際に通り抜け、街道はそこに延びているだけ、初志にいたっては空間を持たない。共通しているのは、端から端まで途切れずに達しているという一点だけです。壊すことも守ることも、その一点に付随して出てくる解釈にすぎないのかもしれません。

手がかりになりそうなのが複合動詞のほうでした。抽象的な目的語をとるとき、この動詞はしばしば「貫き通す」という形に伸びます。そして「通す」系の語彙、つまり筋を通す、意地を通す、我を通す、と自然に入れ替わる。逆に板のほうを「筋を通す」の仲間として読むことはできません。つまり抽象用法は「通す」の強調形として振る舞っているらしい。「通す」は、主語が対象を経路の側へ送り込む動詞です。この読みを当てはめると、初志のほうが移動する側、板のほうが通される場所となり、役割がきれいに逆転します。

自分でこの説明に異議を出しておきます。役割が逆なら、受身形の自然さにも差が出るはずです。実際、「板が貫かれる」はすぐ像が結びますが、「初志が貫かれる」は言えなくはないものの、行為者を「彼によって」と補うと途端に硬くなります。抽象用法では行為者と主語が分離しにくい。一方で命令形は逆で、標語めいた短い呼びかけとして機能するのは抽象用法のほうです。物理的な貫通を命令することは、ふつうの場面ではまず起きません。この非対称は、私の逆転説を否定はしませんが、単純な役割交替以上のことが起きている証拠にはなります。

対になる自動詞がないことも、この語の窮屈さに関わっています。通る、通す。抜ける、抜く。日本語の動詞はこうした自他の対を持つことが多く、対があれば、出来事を主体の側から書くか対象の側から書くかを選べます。ところがこの動詞には、貫かる、にあたる自動詞がありません。対象の側から書きたければ受身に頼るしかない。「板が貫かれる」がどこか説明的に響くのは、本来なら自動詞が引き受けるはずの位置に、受身形が代役で立っているためだと考えられます。抽象用法でその硬さがいっそう目立つのは、そこに行為者を立てにくいという事情が重なるからでしょう。

創作の実務に落とすと、注意すべき点は一つに絞れます。同じ場面で両方の用法を近づけないこと。矢が扉を抜けた直後の段落で登場人物の信念の話にこの動詞を使うと、読者は無意識に修辞的な掛けを読み取ってしまいます。狙ってやるなら効きますが、狙っていない場合は文章が急に説教くさくなる。片方を別の語に逃がすだけで、その臭みは消えます。説教くささの出どころも、たどればはっきりしています。初志貫徹という四字が掲示物や標語の定番になっているため、抽象用法はすでに一つの型を背負っている。地の文でこの動詞を抽象的な目的語に付けると、その掲示物の匂いが薄く付いてくるわけです。避けたいなら、守り抜く、曲げなかった、といった和語の言い回しへ移すほうが早い。物理の用法にはこの手の型がまだ付いていないので、そちらは安心して使えます。

文: hakadoru.ai 編集部

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