足が地に着かない感覚を、なぜ水の上の動きになぞらえるようになったのでしょうか。順序としては逆で、水の上の動きのほうが先にあり、そこから借りられたのだと言えば説明の形にはなります。けれどもその説明では、借りた瞬間に何が起きたのかが抜け落ちる。借用が完了したあとの整理された姿だけが残って、途中の座りの悪さが見えなくなります。答えを保留したまま、語形のほうを見てみます。
上代の歌には「たゆたふ」という形が見え、水面で定まらずに揺れる動きを指しています。近い意味の系列がいくつか併存していたらしく、どれがどれの変形かを一つに決めるのは難しい。ただ、初期の用例が水の上に集中していることは、資料の残り方を割り引いても言えそうです。そこから空気中へ広がります。香が漂う、煙が漂う。媒質が液体から気体に置き換わっても、支えのないものが運ばれるという骨格は変わりません。さらに進むと、媒質そのものが物質でなくなる。不穏な気配が漂う、緊張が漂う。ここまで来ると、何が何の中を動いているのかを問うことに意味がなくなります。
拡大が起きても、古い層が消えるわけではありません。いまでも板きれは海を漂いますし、遭難した船も漂う。新しい用法が加わるたび、語は意味を取り替えるのではなく、階を一つ増やしていきます。だから読者がこの語に出会ったとき、どの階で読むかを決めるのは文脈のほうです。水を主語に置けば一階、香や煙を置けば二階、気配や緊張を置けば三階。厄介なのは、階のあいだに仕切りがないこと——霧が漂う、と書けば、物質としての霧と、そこに立ちこめる情調とが同時に鳴ります。一つの語で二階ぶんを鳴らせるのは、拡大が完了しても下の階が残っているからです。比喩として置いたつもりの一行が、うっかり物理的な描写としても読めてしまう事故は、たいていこの構造から起きます。逆に、二階ぶんを同時に鳴らすことを目的にして書かれた一行は、他の語では代えがききません。
媒質がだんだん希薄になっていく、という筋書きは、しかし整いすぎています。実際の言語変化がこれほど段階的に進んだ証拠はありませんし、抽象的な用法が古い層に散発的に現れていた可能性も残る。生き残った用例だけを時代順に並べれば、どんな語にもきれいな階段が見えてしまう。もう一つ気になるのは、この見出しの形——比喩の標識がついた形のほうです。標識さえ付ければ、意味の拡大を経なくても、どんな結合でもその場で一度きり作れてしまう。何百年かけて定着した用法と、たった今こしらえた比喩とが、外形だけは同じ姿で並んでいる。
区別の手がかりは、標識を外せるかどうかにあります。気配が漂う、はもう比喩と感じられません。拡大が完了して、辞書的な用法として定着している。一方、意識が漂うような感じ、と書くとき、標識を外して意識が漂う、と言い切ると据わりが悪くなる。据わりの悪さが、その結合がまだ新しいことを教えてくれます。摩耗の度合いを測る簡単な試験になっている。
標識そのものにも歴史があります。古典語で比況を担っていたのは、ごとしという助動詞でした。漂ふがごとし、と書けば論理は今の言い方と同じで、手触りだけが違う。現代の散文でごとしを選べば、意味は一ミリも動かないのに、書き手が古い層から借りてきたという合図が立ちます。標識は、これは比喩ですと告げる役目のほかに、その文がどの言語層から来たのかという情報も運んでいる。ようだ、ような、ように、みたいだ、めいた、じみた。近い働きをする形式が並んでいますが、丁寧さも古さも硬さもそれぞれ違う。比喩の中身を一字も変えずに、標識だけを差し替えて印象を動かせるわけです。裏を返せば、標識の選択を無自覚に済ませている文は、その一語ぶんの制御を手放している。
そしてこの差は、読者に対する態度の差になります。標識を残した形は、これは比喩ですと断ってから提示する形です。断ることで誤読の危険は減りますが、同時に、書き手が一歩下がって説明の位置に立つことになる。標識を外した形は説明を放棄する代わりに、その言い方がすでに定着しているかどうかに賭けます。どちらを選ぶかは文体の好みに見えて、実は、その結合が言語の中でどこまで来ているかの見立ての問題です。見立てを誤れば、断りすぎて弱くなるか、断らずに通じなくなるかのどちらかに落ちる。落ちた側から見れば、原因はいつも語彙ではなく、語の年齢の読み違いです。