「つまらないものですが」と言って箱を差し出す。差し出す側は、たいていその品を選んでいます。店を回り、値段を見て、包みを頼んでいる。手間をかけた事実と、無価値を宣言する言葉が、同じ動作の中で同時に成立している。ここで測られているのは品物ではありません。二人の位置関係のほうです。品物を低い側に置くことで、受け取る側が高い位置に移る。品はそのための錘のようなもので、実際の値打ちとは無関係に働きます。だから受け取った側が「いいものですね」と返しても、儀礼は壊れません。錘はもう役目を終えている。
同じ位置に置ける言い方は、ほかにもいくつか用意されています。「心ばかりの品ですが」「お口に合うかどうか分かりませんが」「ほんの少しですが」。どれも自分の差し出すものを低く見積もる形をしていますが、低く見積もる対象がそれぞれ違う。心ばかり、と言えば注いだ量を控えめに申告している。お口に合うかどうか、と言えば相手の好みとの適合を不確かな側に置いている。値打ちそのものを正面から取り消しにかかるのは、この一語だけです。もっとも踏み込んだ謙譲でありながら、実際には最も気楽に使える——定型句としての摩耗が進んでいて、聞き手が字義どおりに受け取る危険がないからです。強い言葉が安全に使えるのは、その言葉が十分に擦り切れている場合に限られます。摩耗はここでは劣化ではなく、使用条件のほうです。
同じ語を批評の場に移すと、働きが反転します。「つまらなかった」という一言は、対象への評価に見えて、実際には話し手の状態しか語っていない。何がどうだったのかが含まれないからです。この情報量の少なさが、そのまま強さになる。反論しようにも足場がない。「退屈だった」なら、時間の経験を述べているぶん反論の手がかりが残ります。「くだらない」なら価値判断を明示している。この語だけが、どちらとも取れる位置に留まったまま相手に届く。曖昧さが防御になっている構図です。
宛先を変えてみると、扱いにくさがはっきりします。書いた本人を前にしてこの判定を口にすることは、まずできません。使われるのは作者が同席していない場所、読んだ者どうしが感想を交わす席のほうです。称賛は本人へ直接届けられ、この種の判定は本人のいないところで流通する。仮に届いてしまった場合に起きるのは、評価の伝達ではなく関係の組み替えです。判定を下す資格が自分の側にある、と宣言したことになるからで、言われた側が反発するのは判定の中身に対してではなく、その資格の主張に対してでしょう。中身が空である以上、残るのは資格の主張だけになる。贈答の場では話が逆で、相手の顔を見ていなければこの言葉は出てきません。目の前に受け手がいて初めて位置の交換が起きるからです。同じ語形が、一方では対面を必須とし、他方では対面を避けて流通する。
否定を重ねても元には戻りません。「つまらなくはない」と言われた書き手が褒められた気になれないのは、論理の問題ではなく、選択の痕跡が残るからです。「面白い」と言える場面でそれを言わなかった、という事実が、弱い表現を選んだ時点で聞き手に伝わる。より強い言い方が使えたのに使わなかったなら、そちらは成り立たなかったのだろう——聞き手はそう読みます。二重否定は形の上で肯定に戻っても、選ばれなかった語の影までは消せない。
ここで立ち止まります。この語は常に不誠実なのか。そうとも言えない用法があります。自分に向けたときです。「つまらない意地を張った」「つまらないことで一日を潰した」。この場合、対象は自分の行為で、話し手は誰の位置も動かしていない。むしろ事後の評価として正確に働きます。同じ語が、向ける方向によって誠実さの度合いを変える。他者に向けたときの空虚さは、語そのものの性質というより、評価を外へ投げる形で使われることの帰結です。
語形は「詰まる」の否定に由来するとする説明が辞書には見えます。行き詰まらない、決着がつかない。その感覚は今の用法にも残っている——この語を口にした人は、その対象について何も決めていません。決めないまま切り上げた、という報告になる。贈答の場面ではそれが謙譲として働き、批評の場では判断の放棄として響く。同じ「決着をつけない」という一つの態度が、置かれた場によって礼儀にも怠慢にも見える。人物にこの語を言わせるなら、どちらの場に立たせるかを先に決めておく必要があります。