林のなかの道を歩くと、地面に落ちた光の斑は絶えず形を変えます。見たままを書くだけの、易しい題材のように見える。ところが実際に書こうとすると、この情景は語形の選択肢がひどく狭いことに気づきます。理由の一端は意味ではなく文法の側にあって、日本語の連体修飾節が文末の述語とは別の時計で動いているためです。修飾節の非過去形は、いま現在を指しているのではない。主節の時点で進行中である、という相対的な指定をしているだけです。
試しに、揺れるの部分を過去形に変えてみると、多くの人が立ち止まります。壊れているところは一つもない。自動詞の過去形が名詞を修飾しているだけです。落ち着かないのは、連体修飾節の「た」が主節時点より前の完了を表すからで、すでに揺れ終わってしまった光という読みが立ち上がる。揺れが終わった光は、もう斑である必要がありません。ただの日向です。継続動詞の連体非過去形が進行の意味を引き受けるという非対称——「流れる川」「燃える炎」も同じ構造です——が、ここでは事実上ひとつの語形しか許していません。
進行を明示する形も、一応は用意されています。揺れている木漏れ日。文法上どこも壊れていませんが、原稿ではあまり選ばれない。連体節のなかでテイル形を使うと、主節の時点と重なっていることが二重に標示され、そのぶん名詞句が重くなるからです。非過去形がすでに進行を引き受けているので、明示は冗長として処理される。他動詞へ逃げる道も塞がっています。この動詞には揺らすという対の他動詞がありますが、揺らす木漏れ日、と書けば光のほうが何かを揺らしていることになり、情景が入れ替わってしまう。選択肢が一つしかないという狭さは、書き手の語彙以前に、活用の枠のほうが先に閉じていることから来ています。
もう一段ややこしいのは、揺れているものが何かという点です。修飾節と被修飾名詞の関係だけを見れば、光が揺れると読むほかない。しかし物理的には葉が動いているのであって、光は地面の上で位置を入れ替えているにすぎません。日本語の連体修飾は、動作の帰属先をこの程度には平気でずらします。「沈む夕日」も「かすむ視界」も同じで、責任者ではないものを主語の位置に据えたまま通用している。描写がここで得ているのは正確さではなく、観察者が実際に受け取った順序のほうです。目に入るのは葉ではなく、まず光。
語の内側も見ておきます。木と漏れと日の三要素からなる複合で、真ん中の「漏れ」は動詞の連用形が名詞になったもの、末尾は連濁して濁ります。つまりこの名詞は、内部にすでに一つの述語を畳み込んでいる。そこへ外側からもう一つの述語が連体修飾として被さるので、述語が二重に積まれた状態になります。修飾をもう一枚足したとたんに飽和して見えるのはそのためで、色や量の語を一つ加えたあたりが実用上の上限です。三つ重ねると、どれが芯なのか読者が決められなくなる。畳み込まれた述語のほうにも制限が残っています。内部の「漏れ」は自動詞ですから、誰が漏らしたのかを問える形になっていない。木が光を漏らした、という他動詞の文をこの名詞から復元しようとすると、途端に不自然になります。
数の扱いも独特です。地面に落ちている斑は数十でも数百でもありうるのに、日本語はこれを一語で受け、複数であることをどこにも標示しません。一つの木漏れ日、二つ目の木漏れ日、という数え方は普通しない。個体に分かれない広がりとして扱われる名詞なので、被さっている述語のほうも、個々の斑の運動ではなく全体の状態を述べていることになります。この曖昧さは他の言語へ移すと表に出ます。訳す側は、光の斑を数えられる名詞の複数形で受けるか、光の効果を指す数えられない語で受けるかを、どこかで決めなければならない。原文では決めずに済んでいた区別です。決めずに済むというのは、個数も密度も確定しないまま情景を差し出せるということでもあって、この句が便利に使われてきた理由の一つはそこにあります。
そして連体修飾は、視点の位置を指定しません。誰がどこから見ているのか、この表現はまったく述べていない。地面を見下ろしているのか、木の下から見上げているのか、歩きながらなのか立ち止まっているのか——文法が空けたその穴を直前か直後の一文で埋めるかどうかが、書き手の判断になります。埋めずに置けば、光は誰のものでもない風景として残る。それが狙いなら正しい。狙いでないなら、この一句は情報を一つ落としたまま先へ進んでいます。