三つの言い方を並べてみます。勇気を出す。勇気が湧く。勇気がいる。同じ名詞が、他動詞の目的語になり、自動詞の主語になり、必要を述べる構文の対象になる。日本語の名詞としては特別なことではありません。ただ、この三つを同義の言い換えとして扱えるかというと、扱えない。助詞を替えただけで、何が起きているかの説明のほうが別のものに入れ替わってしまいます。人物が一歩を踏み出す場面で、書き手が最初に決めているのは実は語彙ではありません。この三つのうちどれを使うかという一点です。
「出す」の文では、人が主語です。出すからには、それは既にその人の内側にあったことになる。在庫があり、意志によって取り出される。「湧く」の文では主語が交代して、人は場所になります。当人は湧く現象を経験する容器であって、その発生を制御していない。「それを言うには勇気がいる」に至っては、人が文面から消えます。要求しているのは課題の側で、量は状況によって決まっている。誰の手柄で誰の責任かが、助詞の選択だけで三通りに振り分けられている。
引っかかるのは、中立な言い方が用意されていないことです。二字漢語の多くはサ変動詞になります。努力する、決断する、我慢する。ところがこの語は動詞化しない。形容詞形もありません。述語として使いたければ、必ず外部から動詞を借りてくるほかない。そして借りた動詞は、必ず自分のモデルを一緒に連れてきます。在庫として扱うか、現象として扱うか、必要量として扱うか——どれかを選ばずに述べる手段が、この名詞には存在しないわけです。
共起する動詞をもう少し並べると、量の含意まで見えてきます。振り絞るは、水気の少ない布を絞る動作からの転用で、残りが乏しいことを前提にしている。だから「振り絞った」と書けば、それだけで在庫の残量が読者に伝わる。近年広く使われるようになった「勇気をもらう」は、授受動詞を使うぶん出所が他者に移り、当人の内側の量に触れないまま済ませられる言い方です。奮い起こすは眠っているものを起こす形で、在庫はあるが動いていないという前提を置きます。「勇気が出ない」という否定形も、量そのものの欠乏ではなく、取り出す仕組みの側の不調として読まれる。動詞を替えるたびに、量の所在と残高が書き換えられていく。
量として扱われている証拠は、数え方の側にも出ています。この名詞に助数詞は付きません。一つ、二つと数えることができない。にもかかわらず、多い少ないは自由に言えるし、足りる足りないも言える。文法の分類でいえば、水や砂と同じ非可算の側に置かれた名詞です。だから分量の言い方のほうを借りることになる。ありったけの、ひとつまみの、あと少しの——どれも器や分量の表現を転用した形です。慣用句の「勇気百倍」も、倍という比を使って量を語っています。近い意味の勇断は事情が違い、こちらは一回の決断という出来事を指すので数えられる。同じ領域を扱う語のあいだに、可算と非可算の線がきれいに引かれています。
派生の側には、一つだけ逃げ道があります。勇気づける。名詞に「づける」を付けた複合動詞で、しかも向きが外を向いている。自分の分については借用しかできないのに、他人の分については専用の動詞が用意されている。もう一つ、「勇気ある決断」という連体の型もあります。心ある、名誉ある、意味あると同じく、名詞に「ある」が直接続く文語的な形で、「勇気のある人」と比べると硬く、判断が済んでいる響きになります。受身にした「勇気づけられる」まで行くと、向きがもう一度反転して、外から来た力を受け取る側に立つことになる。自分の量を自分で動かすための専用の語だけが、最後まで用意されません。
場面を書くとき、この選択は避けて通れません。踏み出す直前の一行に「出した」と置けば、その人物はもともと持っていたことになり、読者は性格の描写として受け取ります。「湧いた」と置けば外から来たものになり、直前に何が起きたのかを見せる責任が書き手に発生する。「いる」と置けば、まだ誰も動いていない。三つの助詞は、三つの異なる場面設計です。長編なら、同じ人物に対して三つを順に使う手もあります。序盤で要ると書き、中盤で湧いたと書き、終盤で出したと書けば、その人物の位置が三度移ったことだけが、説明なしで残ります。どれを選ぶかは文体の好みではなく、その一歩を誰の手柄にするかの決定になります。