吹きすさぶ嵐

【ふきすさぶあらし】名詞句

使い分けの視点

嵐は風速の説明より、傘を支える腕や濡れた袖口に置くと人物の危機になります。「暴風雨」は雨を含み、「暴風」は風圧へ焦点を絞ります。心情と天候を安易に重ねず、声が届かない、進路が塞がるといった物理的な働きで場面を動かします。

同義語

同品詞の類義語

猛り狂う暴風雨文芸的
荒れ狂う風雨文芸的
唸りを上げる暴風
猛威を振るう天候

類義句

同品詞の慣用的言い換え

天が崩れるような風雨文芸的
山を揺さぶる風文芸的
海を荒れさせる風

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

獣が暴れるような文芸的
鞭打つような文芸的
雷が降るような文芸的

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

風が荒れ狂った
天が荒れた文芸的
風雨が暴れ回った

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

猛り立つ天の怒り文芸的
音と暗黒の渦文芸的
牙を剥く天候文芸的

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

袖口から入る雨エッセイ関連

例文: 袖口から入る雨の冷たさに、伝令は握った地図が濡れたと気づいた。

荒天が背景から降りてくるまで——近代小説と天候描写

嵐の場面には、書き手を捕らえる引力が二つあります。ひとつは、風速と雨量を積み上げて自然そのものの巨大さを描こうとする方向。もうひとつは、荒れる天候を人物の内面の写し絵として使う方向。前者は退屈になりやすく、後者は安易になりやすい。厄介なのは、どちらの失敗も書いている最中には自覚しにくいことです。書いている側には、風の音がはっきり聞こえてしまっているからでしょう。この二つの引力は、近代日本の散文が天候をどう扱ってきたかの歴史と、ほぼそのまま重なっています。

言文一致以前の物語で、天候はしばしば筋の都合で置かれていました。旅の足止め、事件の隠蔽、季節の指標——出来事を動かすための装置です。二葉亭四迷が『浮雲』で明治二十年代に試みたような口語体の獲得は、風景そのものを、筋から独立した対象としてじっくり書くことを可能にしました。同じころ正岡子規が唱えた写生は、対象を見たとおりに写し取ることを方法として立てたもので、俳句や短歌の側から散文の書き方にも及んでいきます。徳冨蘆花が明治三十三年に刊行した『自然と人生』は、自然の観察それ自体を読み物として成立させた例として知られています。描写が背景から降りてきて、独立した仕事を持ちはじめる。

夏目漱石の『二百十日』は、立春から数えて二百十日目、つまり台風の来る時節を題名に据えた作品です。阿蘇を登ろうとする二人が暴風雨に阻まれるという筋立てで、荒天はまず物理的な障害物として機能します。同時にそれは、延々と続く二人の会話の背後で鳴り続けてもいる。天候が主題を代弁するのでもなく、単なる書き割りでもなく、その中間に置かれている。読者は会話を追いながら、追いきれない音量の何かがずっと外側にあることを意識させられます。嵐を書くときに参照する価値があるのは、この配分のほうでしょう。

自然に人間の感情を投げ込む書き方には、十九世紀のイギリスで名前がつきました。ジョン・ラスキンが感傷的誤謬と呼んで批判したもので、悲しむ人物のまわりで海が唸る、といった書き方を指します。名指しで批判されてなおこの手法が消えなかったのは、読者の側にそれを読み取る用意があるからでしょう。むしろ、天候と心情が一致していないときにこそ、読者はその不一致のほうを読む。晴れた日の葬儀が効くのは、照応の期待が先にあるからです。問題は使うか使わないかではなく、人物が嵐を見ているのか、書き手が嵐に説明を代行させているのか、その違いのほうにある。

実作で確かめられることが一つあります。嵐の描写を全部削って、人物の動作だけを残してみる。傘の柄を握り直す、声を張っても届かない、袖口から水が入ってくる——それだけで荒天は十分に伝わり、しかも人物の状態まで一緒に運ばれてくる。風の唸りを何行費やしても届かなかったものが、袖口の一行で届いてしまうことがある。天候そのものは測定値の集まりで、測定値には情動が付いていません。付いているのは、それを受ける身体のほうです。近代の散文が百年かけて手放してきたのは、おそらく風の側の行数でしょう。

文: hakadoru.ai 編集部

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