「気持ちが揺れています」と誰かが口にするとき、伝わっているのは事実の報告だけではありません。決めていないという情報を渡すだけなら、決めていませんと言えば足ります。それでも人はわざわざこの動詞を選ぶ。選んだ時点で、決める意思があること、いまその過程の途中にいること、そしてもう少し待ってほしいという要請が、まとめて相手に届く。一語で三つの含みを運んでいる計算になります。
報道の言い回しを見ると、別の働きが出てきます。ある人物の進退が揺れる、党内が揺れる、市場が揺れる。主語は人ではなく、事態や組織や場です。誰が動揺しているのかを名指さずに、状況の不安定さだけを述べることができる。責任の所在をぼかす装置として、これはよくできています。地震の速報で使われるかたちも近い性質を持っていて、そこでは現象が主語になり、誰の身にどう起きたかは後から補われる。主語を人から外せる自動詞は、公的な文章にとって使い勝手がいい。
ぼかすのは悪いことか、と考えると、話はそう単純ではありません。全員の内心を確かめずに事態を記述しなければならない場面は現実にあり、そこで人を名指すほうがむしろ不正確です。曖昧さが常に欠陥だという前提は、書き言葉の実務では成り立たない。問題になるのは、ぼかす必要がない場所でぼかしたときだけです。
会話の中では、主語が誰かで礼儀の重さが変わります。自分について言うぶんには、迷いの表明であると同時に、判断の主導権をまだ手放していないという宣言になる。ところが相手について「揺れているね」と言うと、性質が一変します。相手の内心を外から測ったうえで、その測定結果を本人に告げる行為になるからです。当たっていれば見透かされた気まずさが残り、外れていれば決めつけになる。第三者について同じことを言えば、その場にいない人物の内面を評定する権限を、話し手が勝手に引き受けたことになる。同じ動詞が、一人称・二人称・三人称でまるで違う社会的な重さを持つ。含みが人称によって切り替わる語は、会話文の設計では扱いに注意が要ります。
小説の地の文に持ち込むと、この装置は視点の問題に変わります。彼の心は揺れた、と語り手が書いた瞬間、その語り手は心の外側に立っています。揺れは外から観察された形であって、内側からは見えにくい。実際、迷っている当人の意識に上がっているのは、一つ一つの判断を真剣に検討している感触のほうで、自分が振れているという自覚ではありません。振れ幅は、時間を隔てて眺めたときに初めて図形として現れる。
だから一人称の現在進行の語りで使うと、たいてい弱くなります。語り手が自分を外から見ていることになり、そのぶん切実さが落ちる。逆に、三人称の語りや、何年か後から振り返る一人称では、この動詞は正確に働く。同じ一語が、視点の位置によって鋭くも鈍くもなるわけです。使うかどうかを迷ったときは、語り手がその心の外に立てる位置にいるかどうかを先に確かめる。立てないなら、揺れの結果として現れた具体的な動作——引き返す、二度読み直す、電話を切る——のほうを書けば足ります。