この形容詞の「お」は、かつて「ほ」でした。古い形は「いとほし」で、語中のハ行音がワ行音へ移る変化を経て現在の音になっています。仮名の一字が、遠い時代の子音の位置を化石のように残しているわけです。そして古語の「いとほし」は、愛情の語ではありませんでした。気の毒だ、見ていて痛ましい——対象への同情がまず立つ意味であり、さらに遡れば話者自身のつらさを指したという説もあります。愛らしいものへ向かう現在の用法は、この語にとって後から獲得された領域です。
意味の変化を数の言葉で書くなら、起きたのは符号の反転であって、絶対値の変化ではありません。負の側にあった値が、正の側へ移った。しかし移動の過程で強度は落ちていない。胸が締めつけられる、放っておけない、見ていられない。現在の用例に添う表現が、快の語彙ではなく圧迫の語彙に偏っていることは、この見方と整合します。楽しい、嬉しいといった、素直に正の値を取る形容詞とは体感の質がはっきり違う。良い方向への意味変化そのものは珍しくありませんが、変化の前後で強度まで保存されている例は、そう多くないように見えます。
表記も、この語が制度の枠に収まらないことを示しています。常用漢字表の「愛」に与えられているのは音のアイだけで、訓は一つもありません。したがって「愛おしい」も「愛しい」も、表内の音訓では書けない。役所の文書でこの感情に触れる必要が生じたら、仮名で書くほかないということになります。漢字が意味の側から後付けで宛てられた表記だということが、ここで見えてくる。宛てられた字は「愛」ですが、語誌の側が指しているのは同情に近い何かで、字と語のあいだには最初からずれがあります。派生の広がりは、逆に語の古さを示しています。動詞形の「愛おしむ」があり、様態の「愛おしげ」があり、三人称に回す「愛おしがる」がある。形容詞から動詞を作る型は生産的ではなく、悲しむ、惜しむ、苦しむと数えられる程度で、そこに並べるということは、この語がかなり早い時期から日本語の内側にあったということです。
比較の話にも触れておきます。二つの対象を並べて、どちらがより愛おしいかを決める——この問いは、たいてい立ちません。大小を決めるには比べる関数の引数を一つに絞る必要がありますが、この語の値は対象だけでは定まらないからです。誰が見ているかという第二の引数が必ず入る。観察者を固定しない限り順序は決まらず、固定したところで、その人の履歴に依存した順序が一つ手に入るだけです。全員に共通する一本の物差しは出てこない。数学の言い方をすれば、順序が一つあるのではなく、観察者ごとの順序の族があることになります。物差しが一本ないという事実は、この語が評価の言葉ではないことの言い換えでもある。優れているから選ばれるのではないので、対象の側を強化しても値は上がりません。
音の長さも見ておきます。い、と、お、し、いで五拍。同語源とされる「いとしい」は、い、と、し、いの四拍で、一拍短い。この一拍の差が用法の差に対応しているかどうかは、断定できる材料がありません。ただ、四拍のほうが恋情の文脈に、五拍のほうが庇護の文脈に寄るという感触は、多くの書き手が共有しているはずです。実務として使えるのは、むしろ絶対値の側でしょう。この語を置いた地の文が甘くなりすぎるとき、欠けているのはたいてい痛みの成分で、語誌が保存しているのは正確にそこにあたる。守りたいと書く手前に、守れないかもしれないという見通しを一行置く。順序を逆にするだけで、この形容詞は働き始めます。