顔がほてって、まぶしくて、まともに見ていられない。そういう身体感覚を表す古語に「おもはゆし(面映ゆし)」があり、今も「面映ゆい」として残っています。「かわいらしい」の核にある「かはゆし」も、これと同じ作りの「かほはゆし(顔映ゆし)」が縮んだ形だとする説が有力とされています。語源説に断定は禁物ですが、この説に従うなら、出発点にあったのは愛らしさではなく、直視できないという感覚だったことになる。
実際、中世の用例では「かはゆし」は「気の毒だ」「見るに忍びない」に相当する意味で使われていたことが知られています。弱く小さいもの、傷ついたものを前にして目を伏せたくなる感情が先にあり、そこから庇護の情を経て、「愛らしい」という現在の意味へ移っていった。意味の良化と呼ばれる変化の、教科書的な一例です。そして古い意味は消えたわけではありません。「かわいそう」という形の中に、憐れみの側の意味が今も封じ込められている。同じ根から出た二つの語が、愛と憐れみを分担して受け持っているわけです。
さて、この語はそこにもう一つ部品を足しています。接尾辞の「らしい」です。「子供らしい」「春らしい」のように、「らしい」は「その性質を十分に備えている」という判断を作ります。注目すべきは、この接尾辞が話し手の直接の感情ではなく、観察に基づく認定を表す点です。「かわいい」と言うとき、話し手は自分の心の動きを述べています。「かわいらしい」と言うとき、話し手は対象の性質を認定している。挟まる「らし」は二拍にすぎませんが、視線の構造が違う——前者は感情の告白に近く、後者は描写に近い。同じ構図は「憎い」と「憎らしい」、「愛しい」と「愛らしい」の対にも見られます。「らしい」が挟まると、感情の当事者だった話し手が、半歩下がって観察者の席に移る。接尾辞一つが視点の位置を動かすわけです。
ややこしいのは、同じ音の助動詞が別にあることです。「雨が降るらしい」の「らしい」は推量を作り、話し手が伝聞や根拠に基づいて判断していることを示します。接尾辞のほうは語を作り、助動詞のほうは文を作る。品詞としては別物ですが、音が同じであるために、両者の含みは互いに滲みます。この形容の中に、対象を直に断定していないような気配がわずかに残るのは、その滲みのせいだと考えられます。断定を避ける音が、語の内部に組み込まれているとも言えます。観察者の位置は、意味の構造からだけでなく、音の連想からも支えられているわけです。試しに「かわいいらしい」と言えば、たちまち推量の助動詞のほうに読まれます。二つを分けているのは、前に来る形の違いだけです。
接尾辞の付き方にも偏りがあります。「らしい」は普通、名詞や形容動詞の語幹に付きます。男らしい、春らしい、いやらしい。形容詞の語幹に直接付いた例は数えるほどしかなく、憎らしい、この語、あとは限られた古い語くらいです。うれしらしい、寒らしい、といった形は作れません。つまりこの形容は、いま働いていない作り方で成立した、例外に属する語だということになります。例外的な作られ方をした語が長く残るのは、その形でしか言えないことがあるからでしょう。感情を告白せずに対象を認定する席が、他の言い方では空いたままだった。同じ型の語を新しく作れないぶん、この形には代わりが利きません。近い意味の語はいくつもありますが、観察者の席をこれほど短く名指せる形は、ほかに見当たらないのです。
だからこの語には、わずかな距離が宿ります。年長者が年少者を評するとき、店先の小物を品定めするとき、他人の飼い犬を褒めるとき。対象に呑み込まれていない、観察者の位置から発される形容です。小説の地の文でこの形を選べば、視点人物の冷静さや、対象との心理的距離が静かに示せます。逆に、恋愛感情の渦中にある人物の独白でこれを使うと、距離の取り方が不自然に響くことがある。感情の只中では、人は認定ではなく告白の形を選ぶからです。
語源の話に戻って締めくくります。この語の来歴をたどると、「見ていられない」から始まり、憐れみを経て、いまや「よく見て、認定する」語になりました。目を伏せる語が、目を注ぐ語へ——正反対の位置まで歩いてきたことになります。数百年単位の変化ですが、書き手にとっては他人事ではありません。一つの語の中に堆積したこの視線の歴史を知っていれば、誰にどの場面でこの形容を言わせるかという選択が、それだけ精密になります。