病室で医師が「意識が戻りました」と告げる。教室の隅で少女が「彼を意識してしまう」とひとりごちる。同じ二字なのに、この二つの文で起きていることはまるで別です。違いを作っているのは語義の説明ではなく、格——つまり、どの助詞を従えてどんな構文に入るかという文法のふるまいだ。
第一の型は「が」を従える存在文の系列です。ある、ない、戻る、遠のく、混濁する。ここでの意味は医学的な覚醒状態で、しかも文法は程度の差を許します。「はっきりしてきた」「少し濁っている」。名詞でありながら、水位のように増減する量として扱われている。人称の制限も緩く、本人が語れない状態こそを指すのだから、必然的に三人称の観察の言葉になります。モニターの数値を読み上げるように使われる型です。
第二の型は「を」を取る動詞用法です。対象になるのは多くの場合、人、視線、世間の目。この型は「てしまう」と相性がよい。気づいたときには注意が向いている、という制御不能の含みを帯びるからです。ところが同じ動詞形でも、「意識して呼吸する」「意識して声を低くする」のように連用形で副詞的に使うと、今度は正反対に、意図と制御の意味になる。対象が人だと不随意へ、動作だと随意へ傾く。この非対称は辞書の語義欄にはあまり書かれていませんが、用例を並べれば一目で分かります。同じ動詞が、格の相手次第で「してしまうこと」と「してみせること」に割れる。
この第二の型には、文法と意味のねじれがもう一段あります。他動詞ですから、文法上は動作主の座が用意されている。「もう気にすまい」と決意する主語の座です。ところが意味の上では、決意はたいてい敗北する。気にしないと決めたそばから、目は同じ人物を追っている。文法が与えた制御の座と、意味が突きつける制御不能。このずれを一語で運べるから、恋愛の語りはこの動詞を手放さないのでしょう。第一の型にはそもそも動作主の座がありません。戻る、遠のく、いずれも自動詞で、持ち主でありながら操作できない所有物として文法が扱っている。ねじれ方が、型ごとに違うのです。
第三の型は「当事者意識」「プロとしての意識」のような、態度や構えを指す用法です。こちらは「高い」「低い」という評価の形容詞と結びつき、増減ではなく優劣の軸で測られる。組織論や教育の語彙圏に住んでいて、恋愛にも医療にも出てきません。なお近年、「高い」との結びつきが揶揄の文脈へ滑り出していることも、共起の変化として観察できます。三つの型は、取る格も共起する語もほとんど重ならない。一つの見出しの下に、実質的には別の三語が同居していると言ってもいいでしょう。
書き手にとって、この同居は道具になります。「が」の型を選べば場面は生死や覚醒の水準に置かれ、「を」の型を選べば自意識と関係の水準に、態度の型を選べば職業や組織の水準に置かれる。語を選んだ段階では、まだ文は決まっていない。どの格で使うかを決めたときに、初めて場面の所属が決まる。英語に訳すとそれぞれ別の単語へ散らばっていくのも、この三つが実は別の語である傍証と言えます。医療の場面を訳せば覚醒の語へ、恋愛の場面を訳せば自意識の語へ向かい、三つを一語で受けられる訳語は見つからない。名詞を辞書で引くだけでなく、助詞ごと選ぶ——それが実務上の要点です。