同僚の昇進を聞いて「羨ましい」と言えば、たいてい祝辞として通ります。同じ場で「妬ましい」と言えば、空気が止まる。出来事は一つ、話者も一人、辞書の上では隣り合った語です。それでも一方は社交に乗り、一方は乗らない。差は語義ではなく、その語を口にする行為が何をしてしまうかにあります。
羨ましいは、相手の状態が望ましいと述べる語です。話し手が下にいることを含意はしますが、そこは焦点になっていない。焦点は相手の側の良さに当たっている。妬ましいは焦点が反転します。良さが相手に属していることへの不満が前面に出る。つまり自分の劣位を、主張ではなく前提として持ち込む語です。前提の厄介なところは、否定しても消えないことです。「妬ましくなんかない」と言っても、比較の枠組みそのものは発話に残る。疑問にしても、条件節に入れても、同じことが起きます。この語は、使えば使うほど自分の立ち位置を固定していきます。
発話行為として見ると、羨ましいは褒めの機能を持てるので、相手の面子を立てる方向に働きます。妬ましいはそれができません。むしろ自己開示に近く、聞き手に「どう受け止めればよいのか」という処理の負担を渡す。だから現実の会話では、一人称かつ現在形で裸のまま使われることは稀です。実際に耳にする形は、「妬ましいくらいだ」という程度の緩和か、「あのころは妬ましかった」という過去への退避か、あるいは自嘲の笑いを添えた形になります。緩衝材を一枚挟まないと運べない語だということです。
文法の側にも、この語の扱いにくさを支える仕組みがあります。日本語の感情形容詞は、言い切りの形では原則として一人称の現在にしか使えません。他人について「彼は嬉しい」と書けないのと同じ理屈で、「彼は妬ましい」も落ち着かない。他人に付けるには、がる、思う、といった装置を挟んで「妬ましがっている」「妬ましく思っている」にする必要があります。つまりこの語は、素の形では話し手自身の内側にしか置けない。そして話し手自身の内側に置いた瞬間に、劣位の前提が発話へ持ち込まれる。逃げ道が構造的に塞がれているわけです。
人称を三人称に移すと、機能がまた変わります。「彼は妬ましく思った」は、もはや告白ではなく判定です。人物の内面に、本人が認めるとは限らないラベルを貼っている。これを地の文で書けるのは、語り手が人物より一段高いところに立つ設計を採っているときだけです。一人称の語り手が自分について「妬ましく思った」と書くなら、それは書いている時点の自分が過去の自分を裁いている、という二重の時間を暗黙に宣言したことになります。ここを曖昧にしたまま使うと、語り手の位置が読者に伝わらなくなる。
実務としてまとめると、三つに分かれます。会話文に置くなら緩衝を一つ付ける——自嘲、過去形、条件のいずれか。地の文で三人称に付けるなら、語り手が裁定する権利を持っているかを確認する。そして、緩衝なしの一人称現在で置いてよい場面は限られていて、それはその人物の社交の作法が崩れかけていることを示したいときです。裸で置くこと自体が事件になる語なので、事件でない場面に裸で置くと、人物が急に幼く見えます。この語の扱いにくさそのものが、使いどころを指定しています。