救急の記録に「意識なし」と書かれるとき、それは患者の状態を指しています。呼びかけへの反応、瞳孔、痛み刺激への応答。測られる対象があり、判定の基準があります。一方、小説の地の文に「無意識に指が動いた」と書かれるとき、指しているのは状態ではなく様態です。動いたことは確かで、本人がそれに気づいていないだけ。字面の近い二つの言い方が、まったく違う階層のことを述べている。この分岐は、語が歩いてきた道のりの結果として残ったものです。
出発点は学術翻訳の側にあります。ドイツ語や英語の心理学・哲学の用語を日本語に移す過程で定着した語で、当初は理論の中の一区画を名指すための名詞でした。同じ時期には別の訳語も試されていて、下意識や潜在意識といった競合形が並んでいた時期があります。訳語がいくつも並立し、やがて一つに収束するというのは、この時代の学術語にはよくある経緯です。重要なのは、出発点でこの語が指していたのが、日常の心の動きではなく、理論が要請した構造の一部だったという点でしょう。
専門語が日常に降りてくるとき、意味は薄まります。理論の中では他の概念との関係で位置が決まっていた語が、外へ出ると輪郭を失い、身近な現象を漠然と覆う語になる。この過程は意味の希薄化と呼ばれ、専門用語の一般化ではしばしば観察されます。この語の場合、希薄化は品詞的な重心の移動を伴いました。名詞として単独で使われるより、「無意識に」「無意識のうちに」という副詞的な形で現れる頻度のほうが、体感的にはかなり高い。品詞のふるまいが変わることは、意味変化がある段階まで進んだことの手がかりになります。
競合していた訳語のその後も、変化の様子を教えてくれます。下意識のほうはほとんど使われなくなりました。潜在意識は消えませんでしたが、学術的な文脈からは離れ、自己啓発や広告の語彙として生き残っている。訳語が一つに収束したのではなく、分野ごとに住み分けたわけです。さらに派生形も増えました。無意識的、無意識下、といった形。このうち「下」を付けた言い方については、意識の下という空間的な把握が入り込んでいて、否定接頭辞の構成と噛み合っていないという指摘があります。消えたはずの下意識の空間比喩が、別の語に紛れ込んで戻ってきたようにも見える。
もうひとつ、この語には構成上の弱点があります。否定の接頭辞と「意識」からできているため、否定がどこまで届くかが構造だけでは決まらない。意識という機能そのものが欠けている状態を指すのか、ある対象を意識していない様態を指すのか。前者は医療の文脈で使われ、後者は日常の文脈で使われますが、この振り分けは語の形からは導けません。慣習が決めている。良化とも悪化とも言いにくい、単純な用法の拡大の例です。
書く側にとっては、この歴史がそのまま副作用になります。この語を地の文に置くと、意味は通っても理論の匂いがわずかに残る。人物が自分の動作を後から説明しているような、一段引いた視点が紛れ込む。それを避けたいなら、順序だけを書けば足ります。手が先に動いて、それから自分でも驚いた、と。逆に、自己を分析する癖のある人物なら、この語を使わせること自体が造形になります。訳語だった過去は、教養の位相として語に貼りついたままです。