「あほ」と言われて笑える土地があり、同じ言葉で本気で怒る土地があります。関西では「あほ」が親密な軽口として流通し、「ばか」のほうが刺さる。関東ではその力関係がおおむね逆になる——この東西差はよく指摘されるもので、実感として持っている人も多いはずです。ただし境界は行政区画のように引けません。同じ府県の中でも世代で違い、家庭で違い、テレビや小説を通じて他地域の用法を吸収した個人ではさらに揺れます。位相差というのは、地図というより濃淡です。しかも当事者はたいてい自分の側を標準だと思っているので、衝突は語義の説明では収まりません。軽い冗談のつもりで放った一語が、相手の育った土地では最も重い一語だった——この種のすれ違いは、方言の語彙差より、同じ語の重み付けの差から生まれます。
面白いのは、罵倒語としての鋭さが、形容詞になった途端にかなり抜けることです。人を名指して二文字を投げつける行為と、事態を評価する形容詞を吐く行為は、まったく別の言語行為になる。矛先が人から状況へ移るからです。誰かの努力が報われなかった場面でこの語が出るとき、非難されているのは努力した本人ではなく、努力と結果を結ばなかった構造のほうです。関西でこれに対応する形は「あほらし」で、語尾を言い切らずに放り出す形が今も生きています。言い切らないことで、非難ではなく撤退の宣言に近づく。
位相の軸はもう一本あります。専門語と日常語の断層です。経済学には埋没費用という概念があり、すでに支出して回収できない費用は、これからの判断材料にしてはならないという規範がついてきます。指している地点は、この形容詞が指す感覚とかなり近い。ここまで注ぎ込んだのだから続けよう、という思考の誤りを名指す点で一致します。しかし手触りが違う。専門語のほうは冷たく、次の行動を指示します。日常語のほうは温度があり、行動より先に感情の決着をつける。同じ判断でも、どちらの語で言うかで、その人物が何を優先しているかが出ます。会議室で埋没費用という語を持ち出す人物と、帰り道で同じ内容を日常語で言う人物を書き分ければ、二人の距離ではなく、公私の切り替えのしかたが描けます。専門語は、正しさと引き換えに、感情を場から締め出す装置でもある。
役割語としての年齢も無視できません。この形容詞を台詞で自然に使える話者は、現代小説だとかなり限られます。書生風の男、時代がかった老人、あるいは古い映画の登場人物。今の若い話者は「意味ない」「時間の無駄」に流れやすく、同じ内容をより短く処理します。語には文体上の年齢があり、それは実際の使用者の年齢分布とずれながらも、読者の中に確かな像を結びます。時代小説で若者に言わせても違和感がないのに、現代小説で若者に言わせると芝居がかって聞こえる。この非対称は、語の意味ではなく流通経路が作ったものです。
だから台詞に置けば身分証になり、地の文に置けば語り手の立ち位置の表明になります。登場人物が数か月かけた計画を捨てる場面で、この語を本人に言わせるか、語り手に言わせるか、あるいは誰にも言わせずに手を止める描写だけで済ませるか。三つは別の小説になる。本人に言わせれば負け惜しみの色が付き、語り手に言わせれば作品が本人を突き放し、書かなければ読者が自分でその語を思い浮かべます。三番目がいちばん強く効くことが多いのは、読者が自分で下した評価だけが読者の側に残るからです。