香りや味を評価する専門の場では、言語化を極限まで押し進める語彙が育ちます。柑橘、湿った土、焼いたパン。対象を分解し、既知の別の対象へ写して名指していく。専門語の設計思想は、名づけられないものを減らすことにあります。その反対側に、日常語のほうが用意している定型がある。言語化を断念したことを、わざわざ言語化して伝える型です。断念を語彙化するというのは、考えてみると奇妙な仕事で、しかもその型が一つや二つではなく、いくつも並んで生き残っている。
この言い回しの内部は、現代語の文法では分解しにくい。「得」は可能を表す副詞で、「言われぬ」の「れ」も受身ではなく可能です。可能を二重に立てたうえで否定している構造で、いまの口語ならひと言「言えない」で済む。済むのに残っているのは、意味の合成として毎回組み立てられているのではなく、塊のまま継承されているからでしょう。分解されない語形は摩耗しにくい。部品として意識されなくなった瞬間に、その語は語形の変化圧から降りることができます。文語の断片が現代の文章に生き延びるとき、たいていこの形をとる。
位相としては、話し言葉にはまず現れません。書き言葉、それも文体の格を一段上げた層に限られる。だから使えば、内容とは別の情報が乗ります——語り手はこの層の語彙を持っている人物である、という情報です。役割語ほど固定的ではないにせよ、話者の教養や年齢、あるいは語りの時代が、書き手の意図と無関係に指定されてしまう。近代小説の地の文には馴染むのに、現代を舞台にした一人称の語りへ置くと、その人物が急に別の場所から喋りはじめたように読める。位相のずれは、意味の誤りより目立ちます。
ここで、専門語と日常語を対立させた最初の図式を疑っておきたい。専門家は言語化し、素人は断念する、という整理は据わりがよすぎます。実際には逆の場面が珍しくない。ある領域を長く見てきた人ほど、既存の語彙ではこれは掬えない、と言う。断念は語彙の不足の告白ではなく、対象がこちらの分類体系より細かいという主張でありうる。この言い回しが古風でありながら死んでいないのは、その主張の機能を担い続けているからかもしれません。専門語彙の増殖と、断念の定型の存続は、対立ではなく分業に見えてきます。
評価の方向が偏っていることにも触れておきます。この型は肯定的な評価に強く傾いていて、不快なものに使うと座りが悪い。文法的に禁じられているわけではないのに、実際に書いてみると皮肉としてしか読めない。断念のかたちをとりながら、実際には高い評価を伝えている。含みの方向が固定されている以上、中立の描写語としては使えません。
実務としては、置く位置が全てです。この言い回しが出た瞬間、書き手は描写を放棄する許可を自分に与えることになる。放棄が説得力を持つのは、放棄の前に十分な観察が積まれているときだけでしょう。具体を三つ書いてから断念すれば、読者は語り手が力を尽くしたと受け取る。いきなり断念すれば、書けなかっただけだと受け取られる。