変換候補に三つ並びます。心許ない、心もとない、こころもとない。新聞や役所の文書では二番目を見ることが多く、小説では一番目も普通に使われる。同じ語で、同じ読みで、意味も違わないのに、表記だけが三通りに分かれている。どれを選んでも間違いではない、という状態が続いているわけですが、この分岐には書き手の好み以外の理由があります。
常用漢字表が「許」に認めている訓は「ゆるす」だけです。「もと」という読みはそこに含まれていません。表外の音訓を避ける方針で編集される媒体では、この字を「もと」と読ませる箇所は仮名に開かれることになります。つまり表記の選択が、個人の趣味ではなく、その文章が所属している規範によって決まっている。同じ書き手が同じ語を使っても、投稿先が変われば紙面での姿が変わる。表記は書き手の内側から出てくるものだと思われがちですが、実際にはかなりの部分が外側から与えられています。
「もと」という和語には、当てられる漢字が複数あります。元、本、下、基。常用漢字表は、この四つすべてに「もと」の訓を認めています。同じ音の一語に、意味の側面ごとに別の字を割り振ってきたわけで、由来を指すなら元、根拠を指すなら基、支配や影響の及ぶ範囲を指すなら下、という具合に書き分けが慣用として定着しました。その表に「許」だけが入っていない——空間的な「もと」を長く担ってきた字が、表の外に落ちています。書き分けの体系が一つの字を欠いた形で公認されたために、その一字が受け持っていた意味は、仮名へ流れるか、隣の字へ吸収されるかの二択になりました。この語の表記が揺れているのは、その受け皿の欠落がそのまま残っているからです。表が一字を落としたのは、その字が不要だったからではありません。日常の使用頻度で線を引いた結果、たまたま外側になった。
では「もと」に「許」を当てるのは何なのか。お手許、身許、親許。これらの「もと」は、そば、ところ、身の置き場といった空間的な意味を担っています。「許」の字は、その意味を長く引き受けてきました。その線で読むなら、この形容詞は心の置き場が定まらない状態を指していることになる。ただし語源については複数の説があり、どれも決め手を欠いています。末尾の「ない」も、否定の助動詞ではなく形容詞の一部で、「心許るがない」のようには分解できません。表記は語構成の見取り図を与えてくれますが、その図が正しい保証はどこにもない。
漢字表記は語の由来をたどる手がかりになる一方で、別の混線も作ります。「心を許す」という、まったく意味の違う言い方が近くにあるためです。警戒を解く、信頼する。字面だけを見て、この形容詞を「相手に心を許さない」の意だと受け取ってしまう例がある。実際の意味は不安で頼りない状態であって、信頼とは関係がありません。語源を保存する働きと、隣の語を呼び寄せてしまう働きが、同じ一つの漢字の中に同居している。仮名に開けば混線は消えますが、代わりに由来への通路も閉じます。どちらを取るかは、書き手が読者に何を渡したいかの問題です。
仮名に開くという処置には、読みにくさという代償が付きものです。表外字を避けた結果できる漢字と仮名の交ぜ書きは、破たん、補てん、かつて見られた ら致 のように、語の途中で表記が切り替わる形になり、読みにくいという批判が長く続いてきました。ところが「心もとない」には、その種の座りの悪さがあまりない。理由は切れ目の位置にあります。破たん は語を構成する二字のあいだで割れますが、この語は「心」という自立した名詞のところで切れ、後ろは付属的な部分です。交ぜ書きの読みにくさは仮名の量ではなく、切断面が語の内側を通るかどうかで決まる。同じ処置でも、語の造りによって被害の大きさが変わります。この語が仮名に開かれてもさほど抵抗なく受け入れられ、三通りの表記が並んだまま共存していられるのは、その条件に恵まれているからでしょう。
送り仮名にも幅があります。古い印刷物では、末尾まで漢字にした「心許無い」の形が見られる。表記は時代と書き手の階層をそのまま示す指標なので、作中では材料として使えます。明治の書簡文を書くなら漢字を増やし、現代の高校生の独白ならすべてひらがなにする——同じ語を、同じ意味で、二人の人物に別の表記で言わせるだけで、二人が別の言語環境にいることが伝わる。開くか閉じるかは、規範に従うだけの作業ではありません。