英語の She dreamed of the sea. を日本語にするとき、最初の分岐は語彙ではなく意味の切り分けです。眠っているあいだに海が出てきたのか、いつか海辺で暮らしたいと思い続けていたのか。原文はどちらとも決めずに置いておけます。前後の文脈が決めることもあれば、決めないまま章をまたぐこともある。ところが訳文の側では、動詞を選んだ瞬間にどちらかが確定してしまう。訳しにくさというのは、たいてい語が足りないことではなく、切れ目の位置がずれていることです。
夢に何をあてがうかは、言語によってはっきり分かれます。日本語は「見る」を使う。韓国語には、ほぼ夢としか結びつかない専用の動詞があり、名詞と動詞が同語源で対になっています。中国語は「する・作る」にあたる動詞を使う。フランス語にも「する」にあたる動詞で夢を組み立てる言い方があります。英語は名詞と同形の動詞を持ち、同族目的語を取って夢を夢見ることもできる。見るのか、作るのか、専用の動詞を立てるのか——夢が視覚の出来事なのか、行為の一種なのか、扱いが揃っていません。
逆向きに訳す場面では、別の非対称が出てきます。眠りの像を語るだけなら英語の動詞一語で足りますが、様子を述べる連体の形を英語へ移そうとすると、副詞が一語で待ち構えている。dreamily という形が既にあるので、日本語側で二つの要素を組み合わせて作った言い回しが、向こうでは一語に畳まれてしまいます。逆に日本語には、漢語の層が別に用意されています。夢想する、白昼夢。和語とは違う位置に立ち、それぞれ英語の別の単語の訳語として使われてきた語です。同じ概念のまわりに、和語と漢語と翻訳語が層をなしている。どの層を選ぶかで文の格も話者との距離も変わるため、対応表を作っても、一対一で埋まる欄はほとんど残りません。
日本語の内部でも、分業が起きています。助詞をはさむ言い方と、複合してひとつの動詞になった形が併存し、後者は比喩の側にかなり偏っている。昨夜こういう夢を見た、という報告に複合動詞のほうを使うと、座りが悪くなります。複合動詞は語彙化が進むと意味が固定し、元の要素の和からずれていく傾向があるとされますが、この語はその過程の途中経過が見える例だと言えます。二つの形が併存しているおかげで、書き手はどちらの意味かを、語形の選択だけで示せる。翻訳では失われがちな区別が、日本語側にはある。
意志の扱いにも、二つの形の差が出ます。眠りのなかの像は自分で選べないので、助詞をはさむ言い方に命令や意志の形を付けると据わりが悪くなる。今夜こういう夢を見ようと決めることは、誰にもできません。ところが複合動詞の側は、命令形も意志形も普通に通ります。夢見ていたい、と書けるのは、そちらが持続的な心の構えを指しているからです。英語の動詞のほうは、この二つを一語で抱えたまま、どちらの場合も命令形で使えてしまう。制御できる出来事とできない出来事の境目——日本語はそれを語形の分岐で引き、英語は引かずに済ませています。訳文に不自然さが出るのは、たいていこの境目をまたいだときです。
近代以降に増えたのは、所有の構文のほうです。夢を持つ、夢がある、という言い方。政治演説の翻訳を通じて広まったと語られることもありますが、その因果を断定できる材料は多くありません。確かなのは、所有の形になった時点で、夢が語られる対象に変わったということです。見るものは私的な出来事ですが、持っているものは他人に申告できる。所有構文の定着は、この語を公的な発話行為の中に引き入れました。就職の面接で聞かれる質問の形を思い浮かべると、その位置がわかります。訳の場面でも、この構文を選ぶかどうかは大きな分岐になります。所有の形にした訳文は、人物が自分の希求を人前で言葉にできる状態にあることを、それだけで前提してしまうからです。
作品の中で使うなら、この揺れをそのまま材料にできます。二つの意味が同居する語なので、読者はどちらとも決めずに読み進められる。人物が眠りの中の像を語っているのか、将来の希求を語っているのか、しばらく判定を保留させたまま進み、あとから片方に確定させる。翻訳では潰さざるを得ない二義が、原文の側では時間差の仕掛けとして使える。訳しにくい語というのは、その言語が独自に担当している範囲を指しているという意味でもあります。