同じことを二度言っている表現は、たいてい削られます。編集の段階で冗長として指摘され、片方が落ちる。ところが、二度言っていることが誰にも見えなくなった表現は、そのまま生き延びる。この連語がまさにその例で、内側にはすでに「見る」に相当するものが埋まっています。埋まったまま外側にもう一度「見る」が付き、しかも誰も重複だと感じない。語の由来が忘れられることは、しばしば語の生存条件になります。
由来については、寝ることを表す古い語と「目」が結びついたもの、という説が有力とされています。この説を取ると、上代の文献に見える「いめ」という語形は説明しやすくなる。実際、万葉集では「いめ」の形が用いられており、平安期以降に「ゆめ」の形が優勢になったと整理されています。もし語源がこのとおりなら、後半にはもともと目が入っている。そこへ動詞の「見る」を接続した形が、現代まで残っている型だということになります。
上代の用例を見て気づくのは、当時の言い方が能動になっていないことです。夢に見ゆ、という型が多く、視覚の主体はやや後ろに退いています。相手が自分を思うから、その姿が夢に現れる——そういう見立てを取る歌がいくつもあります。夢は自分で見るものではなく、向こうからやってくるものだった。この観念を踏まえると、「見るような」という言い方は、比喩の方向が反転していることになります。到来する像ではなく、こちらから積極的に見にいく経験として夢が扱われている。
ここで自分の説明に一つ疑いを挟んでおきます。外側の「見る」を視覚の動詞だと決めてかかってよいのか。この動詞の担当範囲は日本語では広く、面倒を見る、味を見る、様子を見る、といった使い方があります。目を使っていない用法がいくつもあり、試す・経験する・世話をするといった意味へ広がっている。そう考えると、この連語の「見る」は視覚ではなく経験を指しているのかもしれない。重複だという整理は、外側の動詞を狭く取った場合にだけ成り立ちます。それでも、二つの解釈のどちらでも残るものがあって、それは経験の主体がはっきり立つという点です。
比況の側にも由来があります。「ようだ」は、様子・ありさまを意味する名詞に遡るとされ、もとは実体を指す語でした。それが二つのものを並べて似ていると言うための道具になった。ここで「〜のような」と比べると、この連語の性格がはっきりします。前者は対象と対象を直接並べますが、この形は間に一人の経験者を挟む。似ているのは対象どうしではなく、その場に立ったときの手ざわりのほうです。だから主語を持たない情景描写に置くと、わずかに座りが悪くなる。
書くときに効いてくるのは、この語の内側に目が二つあるという事実です。使えば、その場面は自動的に視覚へ寄ります。光、距離、輪郭のぼやけ。逆に、温度や匂いや、皮膚の感覚を中心に置きたい場面でこれを持ち出すと、読者の注意が視覚へ引き戻されて、それまで積んだ感覚が薄まる。語源はふつう読者に届きません。届かないまま、選んだ語の得意な感覚だけが場面に染み出す。何を書くかより先に、その語がどの器官に属しているかを見ておくほうが早いことがあります。