「見るまに息絶えた」と書くと、読者の多くは小さくつまずきます。意味は分かる。それでも据わりが悪いのは、この句が後ろの動詞に条件を出しているからです。膨らむ、広がる、痩せていく、空が暗くなる——こうした段階を踏んで進む変化とはよく馴染む。一方、息絶える、割れる、着く、気づくといった、始まりと終わりが一点に潰れた出来事とは噛み合わない。前者には途中の状態があり、後者にはない。この四文字が求めているのは速さそのものではなく、短縮されうる過程が存在することです。
条件の出どころは後半にあります。「間」は二つの時点に挟まれた幅を指す語で、幅がゼロなら間は成り立たない。だから「瞬時に」「一瞬で」との差が出ます——これらは経過時間を限りなくゼロへ寄せる語で、過程そのものを潰してしまう。対してこの句は、幅をきちんと残したうえで、その幅を短いと評価する。どちらも「速い」と言い換えられるのに、時間を潰す語と、時間を圧縮する語では、意味の組み立てが逆を向いている。同じ訳語に落ちる語どうしが同じ働きをするとは限りません。
同じ「間」を含む言い回しを並べると、位置関係がはっきりします。知らぬ間に、いつの間にか、留守の間に。どれも幅を認めている点では共通していますが、その幅のなかで観察が成立していないことを言う形です。気づかないうちに終わっていた、という報告になる。ところがこの句だけは逆を向いていて、幅のなかで観察がずっと続いていたことを言う。同じ部品を使いながら、目を開けているか閉じているかで意味が反転しているわけです。だから両者は一つの文に同居できません。「知らぬ間に、見るまに枯れていった」は矛盾する。「間」という語そのものは観察について中立で、方向を決めているのは前に付いた動詞のほうです。
前半の「見る」も飾りではありません。誰も立ち会っていない山中で雪が積もる場面にこの句を当てると、文はわずかに軋みます。観察者のいない出来事に、観察を前提とする表現を接いでしまうためです。語の意味が薄れて機能語に近づく現象は日本語にもいくつも見られますが、この「見る」は視覚の実質を完全には手放していない。文法的には副詞句としてふるまいながら、意味の側では場面に目を一つ要求する。書き手にとっては制約であると同時に、視点を短く呼び込める仕掛けでもあります。
使われる文体にも偏りが出ます。事故や災害の報道記事に、この句はまず現れません。報道の文は観察者を消して事実だけを残す形式で書かれるので、目を要求する表現とは相性が悪いからです。現れるとすれば、目撃した人の談話を引いた部分に限られる。逆に、随筆や小説の地の文では抵抗なく働きます。語り手という観察者が最初から立っているためです。同じ内容を伝える文でも、観察者を消す文体と立てる文体があり、この四文字は後者にしか棲めない。三人称で書き進めてきた場面に不用意に入れると、それまで誰のものでもなかった視点が、急に誰かの目になります。
似た速さを表す語を並べてみると、それぞれが速さのどの側面を前に出しているかが分かれます。たちどころに、は結果の到達点に寄る。あっけなく、は速さより評価に寄っていて、拍子抜けという話し手の判断が入り込む。またたく間に、は身体の動作を尺度に借りているものの、まばたきそのものは描かれず、単位としてだけ残っている。この句だけが、変化の途中を見続けているという含みを保つ。上位の概念としてはどれも「短時間で」に括られるのに、括られた先で何を前景に出すかが違う。類義語とは、同じ場面を別々に切り取る語です。同じ動詞の反復形である「みるみる」も、この並びに加えられます。ほぼ仮名で書かれ、反復になったぶん継続の含みが強い。段階を踏んで進むという条件を、いっそう厳しく要求する形です。表記の側にも揺れが残っていて、見る間に、見るまに、みるまに、と三通りが行われている。漢字を当てるほど「間」の実質が前へ出て、仮名に開くほど副詞句として溶けます。材料は同じでも、語形と表記の選びかたで、過程の見え方は段階的に変わる。
だから選ぶときの問いは、どれくらい速いか、ではなく、何を見せたいか、になります。結果だけを提示して次の文へ進みたい場面では、過程を残す表現はかえって足を引っ張る。逆に、変わっていく最中に読者を立ち会わせたいなら、この短い一句が一行で足場を作ります。効くのは一度きり——同じ場面で二度使えば、二度目は速さではなく書き手の手癖として読まれる。焦点をどこに置くかが決まれば、語は自然に一つに絞られます。