声に出して並べてみると、妙なことが起きます。「げんかくのような」は八拍。「まぼろしのような」も八拍です。長さが同じで、意味の方向もそう遠くない。それなのに、文中に置いたときの重さがまるで違う。同じ枠に収まる二つの句が違う速度で読まれるなら、拍数以外の何かが効いているはずで、そこを見ていくと音の側の事情がいくつか出てきます。
拍を区切ると、げ・ん・か・く・の・よ・う・な、ま・ぼ・ろ・し・の・よ・う・なとなります。後半四拍は完全に同じで、差が集中するのは前半です。つまり読者は「のような」へ入る前に、比較される像の硬さをすでに受け取っている。共通の語尾がその差を消すのではなく、同じ終端へ異なる助走を接続しているのです。
まず子音です。前者は濁音の破裂で始まり、そのあとカ行の無声破裂が続きます。二拍目が撥音なので、口はいったん閉じる。後者は鼻音のマ、両唇のバ、流れるラ——どれも息が途切れずに続けられる音です。息を止める箇所が前者にはあり、後者にはない。硬い、柔らかいという印象語で片づけられがちですが、実際に起きているのは口腔の開閉と気流の中断の有無で、ここは印象ではなく観察できます。
とりわけ「ん」の後から「か」へ移る箇所では、鼻へ抜いていた気流を切り替え、舌の奥で閉鎖を作ります。続く「く」でも同じ調音位置が現れるため、短い範囲に閉鎖と解放が重なる。一方の「まぼろし」は、唇、唇、舌先付近へと調音位置が移っていきます。美しさの優劣よりも、同じ八拍の内部で口が行う仕事の密度が違うのです。
母音の並びも違います。前者はエ、ア、ウ。後者はア、オ、オ、イ。オ段が二つ続くと丸みが出るという言い方はいかにも俗っぽくて、そのまま採るのはためらわれます。ただ、口の開き方が別の軌跡を描いているのは確かで、その軌跡の差が読む速度に影響することは、黙読でも消えないと考えられています。声に出さなくても、読者の口はわずかに動いているという説があります。
ここでは印象語を増やすより、実際の文へ入れて比べるほうが安全です。「幻覚のような、白い街」と「まぼろしのような、白い街」を同じ速度で読むと、読点までの呼吸の置き方が変わります。前者は名詞内部の閉鎖が目立ち、後者は「し」から助詞へ流れやすい。音の効果は隣の語を無視して固定できません。
ここで自分の議論を疑っておきます。音象徴の話は循環しやすい。硬く聞こえるのは、意味を先に知っているからではないか。医学用語としての含みを知っている人が、その知識を音の印象に投影しているだけかもしれません。この疑いを晴らすには、意味を知らない話者に判定させる必要がありますが、そういう実験を自分は確かめていないので、断定はできません。少なくとも、音が意味を決めていると言い切るのは行きすぎです。
さらに比較するなら、表記も伏せる必要があります。漢字の字面を見れば、読み始める前から専門語らしさを受け取ってしまうからです。録音を用意するなら同じ話者、同じ文、同じ強さにそろえ、問題の句だけを替える。そこまで制御しても意味知識は残ります。
それでも一つだけ、意味を経由せずに言えることが残ります。停止点の位置です。前者は二拍目に撥音が来て、八拍のうち早い段階でいったん切れる。後者は最後まで切れ目がない——同じ長さの容れ物に、区切りのあるものとないものが入っている。この差は、句そのものの印象ではなく、句の後ろに続く文の入り方に効いてきます。早い停止を持つ句のあとには短い文が続けやすく、切れ目のない句のあとには長い文が乗りやすい。文のリズムを測るとき、数えるべきは拍ではなく息を止める箇所のほうだ、というのが、この二つを並べて分かったことです。
前に長い句を置けば、その流れを「げんかく」の閉鎖が断ちます。形容句を単独の音色として扱わず、前後一文を一息で読み、停止が場面の視線移動と一致するか確かめる。像が突然割れる場面なら閉鎖を生かし、輪郭が溶け続ける場面なら別の語順を選ぶ。拍数が同じでも、停止を置きたい位置によって選択は分かれます。