「幻のような一年だった」という一文を、原稿の中で見つけたとします。読んで意味は通る。通るのに、目を閉じても何も浮かばない。この直喩は何と何を比べているのか、と考えると、右辺が空席になっていることに気づきます。似ているのは消え方なのか、触れられなさなのか、後から思い返したときの信じがたさなのか。候補が多すぎて、どれも選ばれていない。
診断には、比喩を受けた名詞へ問いを返す方法が使えます。その一年は短かったのか、証拠が残らなかったのか、当事者だけが現実だと信じられないのか。答えが一つに絞れれば、右辺に求める性質も決まります。
直喩は、比較の軸が一本に絞られたときに初めて働きます。氷のような手、と書けば軸は温度に決まる。読者は他の性質——透明さ、硬さ、溶けること——を自動的に捨てて温度だけを受け取ります。この捨てる作業が、直喩の本体です。ところがこの句は、捨てるべき候補を読者に示さない。比喩に見える形をしているだけで、実際には情報量がほぼゼロの装飾になっている。それでも文章がなんとなく成立して見えるので、書き手の側からは失敗が見えにくい。
比較軸は説明語で指定しなくても、直前の動作から限定できます。写真を探しても一枚もない、と置けば証拠の欠如が選ばれ、朝には店ごと消えていた、と置けば持続時間が選ばれる。
自分でこれに反論しておきます。曖昧さそのものを狙う場合はどうか。読者に埋めさせる余白として、あえて軸を指定しない書き方はあり得るはずです。実際、詩の言語ではそちらが主流と言ってもよい。ただし条件があります。余白が余白として読まれるのは、周囲が具体で満ちているときだけです。前後の文が同じくらい抽象的なら、それは余白ではなくただの空白になる。手元の一文が失敗しているのは、比喩が曖昧だからではなく、曖昧な比喩を支える具体が周囲になかったからです。
たとえば列車の時刻、濡れた切符、空いた座席まで明確に置いた後なら、人物が「幻のようだった」としか言えないこと自体が情報になります。対象でなく、経験を整理できない人物の認識がぼやけているのです。
手垢を落とす方法は二つあります。ひとつは軸を一本だけ指定すること。「幻のような人だった」を「触れれば温度がないだろうと、なぜか思わせる人だった」に変える。長くなりますが、読者の手のひらは動きます。もうひとつは、比べる相手のほうを具体化すること。この語は「実在しないもの一般」を指すので輪郭が出ない。三日で消えた店、名前を思い出せない同級生、写真に写っていなかった建物——固有の不在を持ってくれば、比較項は自然に定まる。
第三の方法は、直喩を動作へ戻すことです。「幻のような客」を、会計を済ませたのに椅子の温みもレシートも残していない客へ直す。形容を失って文は長くなりますが、他の登場人物が何を根拠に不在を感じたかが見える。
原稿を直すときの手順としては、もっと乱暴で構いません。この句を削ってみて、段落の意味が変わるかどうかを見る。変わらなければ削る。変わるなら、変わった分だけが本当に伝えたかった内容なので、それを別の言葉で書き直す。この検査で生き残る用例は、経験上かなり少ない。少ないという事実自体が、この句がいかに反射的に打たれているかを示しています。
置換後は、段落に残った像の数も数えたい。霧、影、夢、光が同時に並んでいれば、比較軸を一本に絞っても印象は再び散ります。中心の不在を最もよく示す像だけを残し、他は場所や動作へ置き換えます。