同じ原稿の同じ見開きに、「憎らしい」と「にくらしい」が並んでいたことがあります。書き手は無自覚だったはずで、指摘すると驚いていました。表記の揺れとしては珍しくもないのですが、二つを見比べたときの手ざわりが思ったより違ったので、しばらく考え込みました。片方は相手を本気で嫌っており、片方はどこか可愛がっている。同じ語です。字の選び方だけが違う。
まず制度の側を確かめます。1973年に内閣告示として示された「送り仮名の付け方」は、活用のある語は活用語尾を送るのを本則としています。この原則に従えば「憎い」は「い」だけを送る。ところが派生してできた「にくらしい」は、慣用として「憎らしい」と、「らしい」ごと送るのが普通です。2010年の常用漢字表を見ると、「憎」の訓には、にくむ・にくい・にくらしい・にくしみが並んでいる。四つの訓を抱える字はそう多くない。派生形が独立した一語として表に登録されている、ということでもあります。制度の側は、この語を「憎い」の変形ではなく別の語として扱っている。
一方で、同じ音の「にくい」がまったく違う扱いを受ける場面があります。「読みにくい」「言いにくい」のような補助的な用法です。ここで「読み憎い」と漢字を当てる書き手はほとんどいません。国語の表記の慣例としても、こうした形式的な用法は仮名で書くことになっている。理由はおそらく実用的で、字を当てると憎悪が混入してしまうからです。読みづらい本に憎しみは要らない。表記が意味の重さを調整する弁になっている——漢字を開くという操作が、そのまま感情の目盛りを下げる操作になっている。
ここで少し引っかかります。だとすると「にくらしい」と平仮名で書けば感情が軽くなるはずですが、実際に軽くなっているのは感情の強度ではなく、向けている相手のほうではないか。子どもの寝顔や、猫の座り方や、勝負に強い後輩の顔つき——ひらがなの「にくらしい」が向かうのは、たいてい憎めない対象です。強度が下がったのではなく、憎しみの矛先が本気ではないと宣言されている。漢字の「憎らしい」は矛先が本物であることを保証し、仮名は保証を降ろす。表記が調整しているのは量ではなく、真剣さの度合いのほうかもしれません。
もう一つ、表記が語の古さを引きずる例があります。「小面憎い」の「小面」は顔のことで、生意気で癪に障る様子を言いますが、この字面を見た瞬間に文の年代が上がる。同じ内容を仮名で書けば軽口になり、漢字で置けば時代がかる。表記は意味に加えて、その語がどの時代の棚から取り出されたかという情報も担っています。
創作の実務としては、この語を書くたびに一度立ち止まる価値があります。憎しみが本物なら字を当て、相手を結局は許しているなら開く。同じ場面で二つを混在させると、人物の温度が段落ごとに揺れて見える。表記の統一は見た目の問題として語られがちですが、この語に関しては、統一を決めた時点で人物の感情の質が一つ確定してしまう。この選択は、校正を待たず、書いている最中に決めるほうがいい。