ウ・イ・ウ・イ・シ・イ。六拍あります。形容詞としてはかなり長い部類で、比べてみると差は明らかです。良い、なら二拍。赤い、白い、若い、はいずれも三拍。美しい、恥ずかしい、で五拍。六拍まで伸びる形容詞はそれほど多くありません。この長さは、文の中に置いたときそのまま速度に効きます。短い形容詞は名詞にほとんど吸い付いて一語のように読まれますが、六拍あると、読み手の側に一拍分の間が生まれる。意味を検討する前に、まずここを見ておきたい。
音の中身にも偏りがあります。使われている母音はウとイだけで、日本語の五母音のうち口の開きが小さい二つに寄っています。開口の大きいアが一つも入らない。近い意味を持つ「あどけない」が五拍のうち二拍にアを持つのと対照的で、印象の差はここから来ていると言いたくなります。ただ、そう言い切るのは危ういでしょう。ウとイだけで作られた語には「憂鬱」もあり、こちらは軽さとも幼さとも無関係です。母音の構成だけで語の印象が決まるという説明は、反例を並べればすぐ崩れる。音象徴が働いているとしても、それは語の意味や使われる文脈と一緒になって初めて効く程度のものだと考えたほうが正確だと思います。
もう一つ目を引くのは、畳語でありながら濁らないことです。ウイウイシイであって、ウイズイシイにはならない。同じ型を持つ「若々しい」も濁りません。ところが「神々しい」はコウゴウシイと濁り、「時々」はトキドキと濁ります。畳語の連濁は一様ではないのです。後部要素にすでに濁音があると連濁が起きにくいというライマンの法則は広く知られていますが、これらすべてを説明できるわけではなく、語ごとの事情が残ります。理由はさておき、結果として得られているものははっきりしていて、この語は六拍もありながら濁音を一つも含みません。長いのに重くならないのは、その配分によるところが大きいはずです。
歴史的仮名遣いでは「うひうひしい」と書かれ、初孫を「ういまご」と読むときの「うい」と同じ要素が二度重ねられた形だと考えられています。畳むという操作そのものが、程度の強調と同時に、どこか幼さや反復の感触を持ち込む。畳語には擬態語との地続きがあり、そちらは元来、音で状態を写す語群です。この形容詞が、状態の描写でありながら評価の色を帯びるのは、その血筋のせいかもしれません。
拍数の話に戻ると、意味の近い語のあいだで長さがこれほど散らばっているのは、書く側にとっては使える資源です。同じ方向を指す語に、二拍のものから六拍のものまで並んでいる。うぶ、と言えば二拍で終わり、文の速度はほとんど落ちません。それが六拍まで伸びると、その一語のあいだ、読者は他の情報を受け取れなくなる。意味がほぼ同じで長さだけが違う選択肢を持っているというのは、速度の調整つまみを持っているのと同じことです。
実際の運用に落とすと、置き場所の問題になります。会話文の中でこの六拍を使うと、その一語のあいだだけ話者の速度が落ち、口調が急に整った印象が出ます。荒っぽい人物に言わせると、そこだけ人が変わったように読める。地の文なら、文末に近い位置より文中に置くほうが減速が効きます。「初々しい所作だった」より「所作がまだ初々しくて、見ているこちらが息を詰めた」のほうが、語の長さが働く。意味を選ぶだけでなく、六拍という物理量を配置しているのだという意識があると、この語は扱いやすくなります。