表彰状の文面。新聞の見出し。事故の続報の末尾に添えられる一文。この語が現れる場所には、はっきりした偏りがあります。出来事が終わったあとで、当事者ではない誰かが、公の場で書く。そういう条件が揃ったところにばかり顔を出す。意味は「恐れずに立ち向かうこと」と辞書的に片づけられますが、それだけでは、この分布の偏りが説明できません。語義の記述と、実際に使える場所の記述は、別の作業です。
語形の側にも、偏りを後押しする条件があります。二字の漢語で、形容動詞として使う型です。同じ意味領域には和語の「勇ましい」があり、そちらは会話でも地の文でも軽く出せる。漢語のほうは、書き言葉と公的な場面へ寄ります。表彰状、辞令、追悼の文——文字にして掲げるための語彙です。日常の会話で「君は勇敢だね」と言えば、口調が一段持ち上がり、冗談か儀式めいた響きになる。位相のずれそのものが、この語を置ける場所を決めています。辞書は二つの語を似た意味として並べますが、置き場所の重なりはそれほど大きくありません。
自己叙述の側から見ると、非対称はもっと鮮明です。「私は怖い」は何の抵抗もなく言えるのに、「私は勇敢だ」はそのままでは通りません。自慢か、冗談か、他人事めいた人格描写のどれかとして受け取られる。感情語は一人称現在で成立するのに、この種の評価語は成立しないという偏りがあります。オースティンは発話をその機能で分類し、その中に判定を下す種類の発話を置きました。この語はそちらに近い。判定は、判定される当人ではなく、外から与えられるものです。近い意味の勇気のほうは事情が違って、「あのとき勇気がなかった」と自分について言えてしまう。量として語れるものは自称に耐え、属性の断定は耐えない、という線がここに引けます。
二人称に向けると、また別の摩擦が生じます。面と向かって相手をこう評する行為は、褒めであると同時に評定です。評定は、下す側が上に立てるときにだけ滑らかに通ります。上官が部下に、教師が生徒に、大人が子どもに。逆向きにすると、口をきいた側が身の程を越えたように響きます。加えて、この語には命令形の道がありません。「勇敢であれ」は檄としてなら成立しますが、日常の依頼として使うと壊れる。恐れを感じないことは、頼まれて実行できる種類の行為ではないからです。評定はできるのに指示はできないという穴が、使える範囲をさらに狭めています。だから物語の中でこの語を二人称に向けるときは、向けた人物の立場のほうが先に読まれます。台詞そのものより、それを言える位置にいると本人が思っている事実が、読者には強く届く。
次に前提の側。この評価は、危険が実在したことを前提として抱えています。前提が満たされていない場面に持ち込むと、意味が反転する。安全な行為に対して「勇敢ですね」と言えば、まず嫌味になります。ここで動いているのは語義ではありません。語義は何も変わらないまま、前提が現場と食い違ったという事実だけが、皮肉という読みを生んでいる。含みが語の中ではなく、語と状況の隙間から出てくる典型例です。だから辞書をどれだけ精密にしても、この皮肉は記述しきれない。危険の実在は程度の問題でもあるので、書き手は目盛りを自分で置くことになります。読者が危険を軽く見積もった場面にこの評価を置けば、意図しない嫌味が発生する。危険の大きさを先に確定させておく作業は、語彙の選択より前に来ます。
副詞形にすると、そのことがもっと見やすくなります。「彼は勇敢にも名乗り出た」の「〜にも」は、話し手の評価を表に出すための枠です。同じ枠には「愚かにも」「無謀にも」も入る。同一の出来事を、話し手は構文を変えないまま賞賛にも非難にも振り分けられる。勇敢と無謀は、行為の記述としてはしばしば同じものを指していて、両者を分けているのは結果と、語り手がどちらの側に立っているかだけです。
だとすると、書く側の判断は語彙の選択ではなく配置の問題になります。人物に自分をこう言わせれば、その人物は滑稽になるか、嘘をついていることになるかのどちらかです。逆に、誰にこの評価を口にさせるかを決めることは、その出来事の評価権を誰に渡すかを決めることでもある。三人称の語り手が言えば確定した事実に近づき、脇役の一人が言えばその人物の主観として相対化され、敵役に言わせれば皮肉として反転する。同じ行為の意味が、発話者の位置ひとつで変わってしまう。語が難しいのではなく、置く位置が、そのまま作品の視点設計に触れているのです。