新聞の論説や、討論番組の書き起こしで「勇ましい意見」「勇ましい発言」という言い回しに出くわしたとき、それが賞賛である確率はかなり低い。威勢はいいが自分では代価を払わない言説、という含みで使われています。ところが「勇ましい姿」「勇ましく戦う」のほうは、今でも素直な褒め言葉として通る。同じ形容詞が、修飾する相手によって評価の符号を反転させている。この非対称がどこから来たのかを、少し追ってみたいのです。
語の価値が下がっていく変化そのものは珍しくありません。貴様や御前がもともと敬意の高い語だったことはよく挙げられる例で、丁寧さは使い減りしていく。ただ、その型でこの形容詞を説明しようとすると合いません。全面的に下がっていないからです。下がったのは特定の共起環境だけで、身体を伴う場面での用法は無傷のまま残っている。摩耗の比喩では、なぜ一部だけが摩耗したのかを説明できない。
接尾辞の側からも見ておきたい。「〜ましい」の形をとる形容詞を集めると、好ましい、望ましい、たくましい、いたましい、あさましい、おこがましい、やかましい——ほとんどが話し手の評価を含み、しかも符号は正と負に割れています。この形式そのものが、対象の状態ではなく、対象を見た者の判断を運ぶ枠になっている。判断を運ぶ枠は、時代とともに中身が入れ替わりやすい。あさましいは、古くは意外だ、驚きあきれるという広い意味を持っていましたが、現在では卑しさの評価に固まりました。評価が別の評価へ滑る現象は、この形式のあちこちで起きています。だとすれば、修飾先によって符号が動くという今回の現象も、一語だけの事故ではなく、枠の性質が特定の共起で表に出たものと見るほうが自然でしょう。
意味の範囲そのものも動いています。動詞の勇むは、もともと心が浮き立つ、気持ちが奮い立つといった広い状態を指せました。その層は今も「勇んで出かける」に残っていて、ここには戦いも武具も出てきません。ただ現在の形容詞形は、行進や戦闘の画に強く引き寄せられていて、「勇んで」ほどの自由さがない。同じ語根から出た二つの形が、片方は古い層を保ち、片方は狭い場面に固定された。縮小と偏在が同時に起きています。語の意味が狭まるとき、狭まった先がどこになるかは、その時代に何が繰り返し語られたかで決まります。
分かれ目は、修飾先が行為なのか言説なのかにありそうです。この語が下している評価は、危険や損失を引き受けたことへの評価で、そこには代価が前提されている。ところが発言には、代価が伴わない場合がある。評価語がコストのない対象に貼り付くと、その不釣り合いが読み手の側で回収されて、皮肉になる。皮肉化は語義の変化というより、前提と対象のずれが繰り返し観測された結果の定着だ、と見ることができます。逆に、現に危険を引き受けている人物の発言に付けたときは、この仕掛けが働きません。裏に負担があれば、前提と対象は食い違わないからです。
もう一本、語形の側から補助線を引けます。勇み足は、相撲で勝勢のまま足が出て負けになる状況を指す語です。勇み肌にも、抑制の効かなさが含まれている。つまり勇の系列には、もともと過剰を含意する語が並んでいた。だとすれば皮肉の成分は外から加わったのではなく、語の内側に最初からあった行き過ぎの含みが、特定の環境でだけ前面に出てきた、という順序も考えられます。なお勇み足のほうは、土俵の外へ出て広く使われるようになりました。手続きを踏まないまま先へ出てしまった行為を指す語として、会議でも報道でも通じます。相撲の内側にあった過剰の含みが、比喩として移植された形です。どちらの順序が正しいかを決める材料は、手元にありません。
ただ、いつからそうなったかを確定できなくても、現在の分布として観察できることは書けます。会話文に「勇ましいことを言う」と入れれば、その話者は相手を値踏みしている——読者はそう受け取る。地の文で人物の動作に付ければ、語り手はその人物を支持していることになる。書き手が意図するかどうかとは無関係に、修飾先を決めた時点で評価の向きが決まってしまう語です。効き方を確かめたければ、同じ台詞を二人に言わせてみるといい。先頭に立つ人物の口に置いた場合と、後方から指図する人物の口に置いた場合とでは、まったく同じ一語がまるで違う速さで読まれます。皮肉のつもりがないなら、言葉ではなく身体を修飾させておくのが安全です。