同じ一語に、少なくとも三通りの書き方が流通しています。口偏に「天」を組んだ字を頭に置くもの、日偏に「昜」の字を置くもの、そして仮名書き。文庫本を数冊めくれば三つとも拾えるはずで、これほど表記が割れたまま定着している語は、そう多くありません。しかも三つのどれもが、読者に「誤字だ」と思わせない。仮名で開けば三拍にしかならない短い語に、これだけの選択肢が並んでいる。表記の揺れが揺れとして許容されたまま、長く使われ続けている状態です。
事情を分けているのは、漢字の側が音として合っていないことです。頭の漢字の音読みは、どちらの表記でも「のん」にはなりません。訓読みを当てはめても届かない。つまりいずれも当て字であって、字の意味から語義が出てきたのではなく、先に音があり、後から字が宛がわれた。語源については、暖かい気分を意味する語から転じたとする説をはじめ複数の説明が知られていますが、どれか一つに定まっているとは言えません。確かなのは、現在使われている漢字表記が、語の出自を示す証拠にはならないということです。
「〜気」の形をした語を並べてみると、この一語の位置がはっきりします。平気、内気、弱気、強気、短気、根気。どれも前の字が意味をそのまま担っていて、字を読めば語義におおよその見当がつきます。ところがこの語では、前の字を読んでも意味に届かない。口偏の字からも日偏の字からも、気楽さという語義は直接には出てきません。読者は字から推測するのではなく、語形ごと覚えている。当て字が長く定着する条件のひとつは、たぶんそこにあります。字から意味が読めてしまう語なら、揺れは早く一つへ収束したはずです。どの表記も語義の証拠にならないからこそ、どれも決め手を欠いたまま並び続けた。表記の揺れは、書き手の怠慢というより、字と語のあいだに橋が架かっていないことの結果です。
こうした当て字は、日本語の書きことばに珍しくありません。矢張り、兎に角、滅茶苦茶、出鱈目——いずれも漢字の音や訓を借りているだけで、字の意味が語義を支えているわけではない。共通するのは、いずれも和語やそれに近い日常語で、しかも文法的な機能語に近いものが多いという点です。文章の骨格を担う語ほど、輸入された漢語ではなく、在来の語に後から衣装を着せる形で表記されてきた。当て字の多さは、書きことばが漢字で作られ、話しことばが和語で回ってきたことの継ぎ目にあたります。
表記が整理されないまま残った背景には、常用漢字表の運用もあります。日偏の字は常用漢字表に含まれず、人名用漢字の側に置かれている。新聞や教科書のように表記基準を持つ媒体では、表外字を含む語は仮名に開くか言い換えるのが通例です。その結果、公的な文書ほど仮名書きに寄り、小説や随筆のように書き手の裁量が広い場所に漢字表記が残る。表記の分布が、媒体の性格をそのまま映しています。
割れたままであることは、実務の側にも影響します。全文検索は表記の違いを越えてくれませんから、自分の原稿で用例を数えようとしても、三通り探さなければ揃わない。索引を作る場合も同じです。そして一括置換は、この語ではとりわけ危ない操作になります。地の文の表記を仮名から漢字へ統一するとき、会話文や手紙の中の仮名まで一緒に変えてしまえば、そこで作っていた人物の書き癖が消える。表記の統一とは、揃えるべき範囲を決める作業であって、原稿全体を一色に塗る作業ではありません。振り仮名を添えるかどうかも、同じ判断の中に入ります。表外の字に振れば読みは保証されますが、その一語だけが紙面で浮きます。読みが保証されて困る場面はまずないので、迷ったら振る。そのうえで、同じ字が再び出てきたときに振らない、という運用が現実的でしょう。
そして、三つの表記は同じ語義を運びながら、語感までは同じではありません。口偏の字は「呑む」の字ですから、飲み込む、鵜呑みにする、といった連想を引き寄せます。事態を咀嚼せずそのまま受け入れている鈍さ。日偏の字のほうは伸びやかさや通りのよさを指す字で、邪気のなさの側へ傾く。仮名書きは連想を持たず、意味だけが平たく渡ります。使い分けの実務としては、地の文の表記は一作品で統一しておく。そのうえで、手紙や日記や作中作のように、書き手の人格が表記に出てよい箇所だけ字を替える。当て字は、辞書にとっては雑音ですが、小説にとっては人物を描く材料になります。