果てる

【はてる】動詞

使い分けの視点

終わりを示す語は、単なる完了と回復不能の見切りを分けます。「果てる」は話者が戻る可能性を計算から外した響きを持つため、対象の悲惨さだけで選ばず、語り手が結末を知る位置にも注意します。

同義語

同品詞の類義語

尽きる
終わる
潰える文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

終焉を迎える文芸的
幕を下ろす
息の根が止まるcolloquial

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

潮が引くような文芸的
灯火が細るような文芸的
砂時計の最後のような

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

ついに
完全に
あっけなくcolloquial

体言的言い換え

用言を体言に変換

終焉文芸的
幕切れ
終末文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

幕を閉じる
終止符を打つ文芸的
消え失せる文芸的

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

回復を見切るエッセイ関連

例文: 回復を見切るには早いと、薬師は荒れた庭へ新しい苗を植えた。

見切りを表明する動詞——言わずに済ませたことが運ぶもの

「困り果てる」「疲れ果てる」「荒れ果てる」「朽ち果てる」。並べてみると、前に立つ動詞の顔ぶれが偏っています。喜びや走行には付かない。「喜び果てる」「走り果てる」は、成立させようとすればかなりの文脈の助けが要ります。この偏りをどう説明するかで、しばらく行き詰まりました。

最初に思いつくのは、極限を表すからだという説明です。ある状態が進みきった地点を指すので、程度を持つものにしか付かない。走行には程度がないから外れる。悪くない説明ですが、これだと喜びが外れる理由が出てきません。喜びにも程度はあります。程度だけでは足りない。

そこで、意味ではなく話し手の立場を見たほうがよさそうだと思い当たります。この補助動詞が付いた瞬間、その状態は戻らないものとして扱われる。荒れた家について回復の見込みは語られていませんし、困り果てた人はもう打つ手を持っていない。つまりこれは進行の度合いの表示ではなく、話し手が回復の可能性を計算から外したという表明です。喜びを回復の対象として扱う場面はまずない——だから付かない。条件は程度ではなく、話し手の見切りのほうにあった。

名詞形を見ると、別の層が現れます。「地の果て」と「成れの果て」——空間の終端と変化の終端が、同じ形で言われている。空間のほうは、そこから先に進めないという事実だけを述べて良し悪しを言いません。ところが変化のほうには、はっきり評価が入る。同じ語形が、空間では中立で、時間では否定に傾く。この非対称は、終わりを話題にする理由が二つの場合で違うからでしょう。行き止まりは誰にとっても同じ位置にありますが、変化の行き止まりは、話し手がそこを行き止まりと見なして初めて成立します。

単独で使われるときの婉曲も、同じ線の上にあります。死を直接名指さずに済ませる言い方はいくつもありますが、この語が選ばれるとき、表現が柔らかくなるわけではありません。明示を避けたという事実そのものが読み手に伝わり、避けた理由の推論を促す。情報を控えることが、控えた分だけ余計に何かを運ぶ。言い切らないほうが確定的に響く場合がある、という逆説がここにあります。

とはいえ、婉曲という言葉には注意が要ります。婉曲は配慮の技術だと説明されがちですが、この場合は配慮というより距離です。近しい人の最期を語るとき、この言い方を選ぶと語り手は一歩下がった位置に立つ。看取った当人の口からは出にくい。遠くの誰かの死を伝聞で語る場面や、物語の語り手が全体を俯瞰している場面でこそ落ち着きます。

そう書いたあとで、自分の観察に抜けがあることに気づきました。時代物や様式の強い文体では、当人の視点でもこの語が使われます。武家のことばの層に、自死や討死を表す用法が残っているためです。とすると距離ではなく文体の格を上げる働きが本体で、距離はその副産物かもしれない。二つを完全には切り分けられませんでした。切り分けられないまま残るのは、格が上がれば視点は自動的に引くからでしょう。語彙の位相が、そのまま語り手の立ち位置を連れてくる。

実務に降ろすと、判断は単純になります。この語を置くかどうかは、対象がどれだけ悲惨かではなく、語り手が回復の見込みをすでに捨てているかどうかで決まる。まだ捨てていない場面で使えば、語り手が結末を先に漏らしたことになります。

文: hakadoru.ai 編集部

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