這う

【はう】動詞

使い分けの視点

「這う」の核は、身体や茎が面との接触を保って移動することです。人物の必死さには「匍匐する」、上方への力には「よじ登る」、植物の広がりには「伸びる」が合います。遅さだけで選ばず、何に触れ、どこへ進むのかを定めると像が鮮明になります。

同義語

同品詞の類義語

匍匐する文芸的
伸びる
よじ登る

類義句

同品詞の慣用的言い換え

身を伏せて進む文芸的
腹ばいになる
地を舐める文芸的

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

蛇のような
蔦が伸びるような文芸的
影のように文芸的

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

のろのろとcolloquial
地を擦るように文芸的
静かに

体言的言い換え

用言を体言に変換

匍匐文芸的
腹ばい

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

にじり寄る文芸的
忍び入る文芸的
擦り進む

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

接地したまま進むエッセイ関連

例文: 接地したまま進む蔓の先が、石像の閉じた瞼へ届いていた。

蔓草と赤ん坊を同じ語で呼ぶ——接地して伸びるという古い意味

壁面をつたが覆っている建物の前を通ると、植物が上へ向かっているのに、動詞としては上下方向の語が出てこないことに気づきます。伸びる、広がる、覆う。それとは別に、この語も自然に当てはまる。上代の歌には、蔓草が地や木に沿って広がるさまをこの動詞で表した例が残っており、人間の姿勢を指す用法と植物の生長を指す用法は、少なくとも千数百年は同居してきたことになります。同じ語が赤ん坊と蔓草を覆うのは偶然ではなく、共通する何かを古い日本語が抽出していたからだと考えられます。

その共通項は、速度でも形でもなく、接地です。この動詞が成立する条件は、身体なり茎なりが面から離れないまま位置を変えること。歩くや走るは接地と離地を交互に繰り返し、飛ぶは接地を持たない——移動の語はこの一点で分類できます。這うだけが、接触を保ったままの移動を指します。だから「壁を這う」が成り立ち、方向が真上でも語は壊れない。垂直に移動する「這い上がる」も、面に沿っているかぎり矛盾しません。逆に接触が切れた瞬間、この語は使えなくなる。意味の核が方向でも姿勢でもなく接触にあることは、こうした境界例のほうがよく示します。接触は同時に、速度の上限も課します。面との摩擦を抱えたまま進む以上、速くはなれない。遅さはこの語に直接書き込まれた属性ではなく、接地という条件から導かれる帰結です。だから比喩に転用されたときも、遅さのほうが先に立つ。時間が這うように過ぎる、という言い方が成立するのはそのためだと考えられます。

古形は「はふ」です。同じ古形を持つ語として、伸び広がる意の「延ふ」が並んで存在します。両者を同源とみる説があり、意味の重なりも大きいのですが、上代の資料で表記が分かれる以上、断定はできません。密生して広がる意の「はびこる」を同じ系列に結びつける説明も見かけますが、これも複数の見解があると理解しておくのが妥当です。語源の議論は、確からしさに段階があります。

現代語での存在感は、単独より複合の前項にあります。這い出る、這い上がる、這い回る、這いつくばる、這いずる——いずれも生産的で、日常の文章にも自然に現れます。ところが単独で終止形のまま使うと、少し文語がかった、あるいは意図的に選ばれた語という手触りが出る。複合の前項では中立、単独では有標という非対称は、古い語がしばしばたどる道筋です。語幹の意味が複合語の中に保存され、単独形のほうが日常語彙から退いていく。もっとも、この語には退ききらない事情もあります。乳児の発達段階を指す名詞形が現役で使われており、育児の文脈では日常語のまま残っている。同じ語形が、片方の文脈では中立で、別の文脈では有標になる。語の古さは全域で均等に進行せず、使用領域ごとに速度が違います。

そして、姿勢を指す語は社会的な意味を吸い寄せます。接地して進むことは、人間にとっては通常の移動ではなく、負傷か、隠密か、屈従の姿勢を意味します。だから小説でこの語を人物に使うと、意味以上の判断が付いてくる。逃走の場面で使えば必死さが出て、上役の前で使えば侮蔑が出る。書き手はそこで一度立ち止まる価値があります。人物を接地させるのか、それとも植物のように、意志と無関係にただ広がっていくものとして書くのか。この動詞は千数百年前から両方を引き受けてきたので、どちらを選んでも語のほうは受け止めます。

文: hakadoru.ai 編集部

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