「針」と聞いて最初に浮かぶ物は、時代によって違ったはずです。縫い針、待ち針、注射針、レコード針、時計の針、釣り針。語形は一つでも、その語が真っ先に呼び出す実物は、生活の中で何が身近かによって入れ替わってきました。比喩は語形の上に載っているように見えて、実際には読者が最初に思い浮かべる実物の上に載っている。だとすると、同じ言い回しが、時代ごとに違う像を結んでいた可能性があります。
もっとも、ここは慎重に置いておきたいところです。どの時代の読者が何を最初に思い浮かべたかを測った調査を、私は知りません。ただ、注射が誰にとっても年に何度かは経験する出来事になった後と、そうでなかった時期とで、この痛みの標準像が動かなかったと考える方がむしろ不自然でしょう。手芸の針は自分で自分を刺す事故の痛みであり、注射針は他人によって計画的に刺される痛みです。同じ「刺す」でも、力の所在が違う。
動詞の側にも動きがあります。「刺す」はもともと細いものを突き通す物理的な動作でしたが、そこから胸を刺す、刺すような視線、刺すような寒さへと広がった。触覚を表す語が視覚や温度感覚の記述へ移っていく方向は、その逆よりも起こりやすいという指摘があります。感覚を表す形容表現の借用には偏りがあり、触覚のような直接的な感覚の語が、より遠くの感覚を語るために貸し出される。この言い回しが視線にも寒さにも使えるのは、そういう一方向の流れの上に乗っているからでしょう。
通時変化にはもう一つの軸があります。摩耗です。身体の感覚から抽象へ移された比喩は、繰り返し使われるうちに元の像を失っていく。「胸を刺す」はもう痛覚をほとんど呼び起こしません。慣用句になるとは、像が漂白されることでもある。この言い回しがまだ像を保っている側に見えるのは、「ような」という比喩の標識が明示的に残っているからでしょう。標識が落ちて「刺すような」だけになり、さらに「刺す」だけになると、語は死んだ比喩の列に加わります。
漂白を損失と呼びたくなりますが、それは一方的すぎる見方です。像を失った比喩は速く読める。すべての比喩がいちいち絵を結んでしまう文章は、視覚情報が渋滞して前に進みません。「胸を刺す」が像を失ったからこそ、それは接続の語として軽く使える。生きた比喩は一つの場面に一つで足り、残りは摩耗した表現で繋いだ方が、その一つが立ちます。
使うときの分かれ目は、たぶん時間の方にあります。刺すという動作は一瞬で終わり、針は抜かれる。抜かれた後に何が残るのか——残らないなら痛みは点として書き切れますし、残るなら別の比喩を探した方がいい。持続する痛みにこの言い回しを当てると、一瞬で終わる像と続いている状態が噛み合わず、読者は無意識のうちに反復を補うことになります。それが狙いなら回数を書けばよく、狙いでないなら、締めつけや疼きの側の語彙に移す。物の側が入れ替わっても、この時間の構造だけは縫い針から注射針まで共通していました。像の変化に耐えて残ったのは素材ではなく、始まりと終わりの近さの方だった。