この形容を終止形のまま文末に置いた文を思い出そうとして、しばらく手間取りました。浮かんでくるのはほとんど「物憂げに」の形です。連用の副詞か、連体の修飾。断定の位置には来ない。最初はたまたまだろうと思ったのですが、自分で書こうとしても、言い切りの形にすると据わりが悪い。この偏りには理由がありそうです。
「げ」は様態や推量を表す接尾辞で、外から見た印象であることを明示します。三人称の語りで他人の内面を断定することの負担を、これが引き受けてくれる。ここまでは説明がつきます。しかし一人称ならどうか。自分の状態なら断定できるはずですが、実際には一人称でもこの語を言い切る例は多くない。おそらく、この状態は自己認識が遅れるからです。名指すためには、自分がいつもと違うと気づく必要がある。ところがこの不調は特定の出来事に紐づいていないので、比較の基準を持ちにくい。事後に、あるいは他人から指摘されて、初めて輪郭が出てくる。断定しにくいのは文法の都合ではなく、対象の性質の側にある。
語の頭にあるもう一拍も、同じ方向を向いています。もの悲しい、もの寂しい、もの狂おしい——先頭の一拍はこれらと同じ接頭辞で、なんとなく、はっきりした理由もなく、という含みを添える働きをするとされます。原因の不特定は、書き手が選ぶ演出である以前に、語形の側へあらかじめ組み込まれていたわけです。もの悲しいが、悲しいと違って対象を求めないのと同じ事情でしょう。理由の言えないものを言うために、この接頭辞は使われてきた。だとすれば、原因を添えた瞬間にこの語が痩せるのも当然で、接頭辞の仕事を書き手が自分の手で打ち消していることになります。逆に、この一拍を落として「憂い」だけにすると、今度は対象を取り戻してしまう。国の行く末を憂う、というように、憂うには憂う先が要る。一拍あるかないかで、原因を求めるかどうかが反転します。
実務上の厄介さは別のところにあります。この語には、一緒に出てくる道具立てが固まっている。窓辺、雨、午後の光、寝乱れた髪、指に挟んだ煙草。ここまで揃うと、読者はもう語を読んでいません。型を読んでいる。手垢という言葉で語そのものを責めがちですが、摩耗しているのは語ではなく共起の組み合わせのほうです。同じ語を、真昼の駅のホームや、面接の待合室や、荷ほどきの途中の段ボールの前に置けば、印象は変わる。
もう一つの手は、形容をやめることです。状態を名指す代わりに、行動の遅延で書く。立ち上がるまでに二度手をついた。同じ行を三度読んで意味が入らなかった。鳴っている電話を、切れるまで見ていた。読者はそこから状態を再構成します。形容詞は一語で済むぶん速く、動作の描写は遅い代わりに具体的です——この速度差を、場面の長さに応じて選べばいい。数行で通過させたい場面なら形容詞、そこに読者を留めたい場面なら動作。
視点の制約も、思ったより厳しく効きます。様態の接尾が外からの観察を明示するということは、誰が観察しているのかまで決まってしまうということです。三人称限定の視点で書いていて、その視点人物自身に物憂げを使えば、人物が自分を外から眺めていることになり、語りの枠が一瞬だけ漏れる。使えるのは、別の人物がその人を見ている場面か、視点が誰にも固定されていない地の文に限られます。一人称ならもっと厄介で、自分について物憂げと書くなら、鏡を見ているか、他人の目を想像しているかのどちらかになる。副詞ひとつが、語りの構えを勝手に指定してしまうわけです。終止形が思い出せない理由の半分は、たぶんここにもあります。断定の位置に立てないのではなく、断定できる位置に立てる語り手が、そもそも少ない。誰かに見られている人物にしか、この形容は届かないのです。
では、そこまでして使う価値のある語なのか。ここは反論しておくべきところだと思います。使う価値はある。この語だけが、原因も対象も持たないからです。「疲れた」は原因を示唆し、「悲しい」は対象を要求し、「飽きた」は先行する経験を前提にします。理由の言えない不調を、理由を言わずに名指せる語は少ない。だから使うときの条件は一つに絞れます。原因を書かないこと。「昨夜眠れなかったせいで物憂い」と書いた瞬間、この語である必然性は消え、「だるい」で足ります。理由を添えないまま置き、読者にも書き手にも理由を渡さない。その不親切さが、この語の機能そのものです。