同じ皿を前にして、関西で育った人が「あじない」と言い、東京で育った人が「まずい」と言う。並べると、否定の作り方そのものが違っていることに気づきます。前者は味が存在しないと述べ、後者は味の質を独立した語で否定する。欠如として言うか、対立語として言うか。同じ不満を伝えているのに、文の構造が別々の場所から立ち上がっている。方言差というと語形の違いばかりが注目されますが、否定をどう組み立てるかの設計が違う例は、このようにしばしば見つかります。
欠如の形で否定するやり方は、関西の語彙の中で孤立してはいません。「しゃあない」は仕方が無いの縮まった形で、取るべき手段が存在しないと述べています。「あかん」についても、埒が明かぬから来たとする説がよく知られています。どちらも、悪いと直接に言うのではなく、あるはずのものが無いという形で否定を組む。個々の語形は別々に生まれたのでしょうが、結果として並んだ顔ぶれには、一つの傾向が読み取れます。悪さを名指す語を立てるか、良さの不在を述べるか——同じ内容へ向かう二本の道が、地域によって違う頻度で選ばれてきたわけです。欠如で言う型は、責める相手を文の中に立てずに済むという点でも、対立語の型とは働きが違います。
対をなすとされる「うまい」との関係も、よく見ると釣り合っていません。うまいの側は技量へ広がり、字がうまい、話がうまい、商売がうまい、といった言い方を作る。ところが技量を否定するとき、この語は使われず「拙い」に交代します。片側だけが領域を広げ、もう片側は元の場所に残っている。代わりにこちらは別の方向へ枝を伸ばしていて、「それはまずい」と言えば、味覚を離れて状況の危険を示す。感覚の語が事態評価の語に転じる移動は珍しくありませんが、対義語の一方だけが移動した結果、二つの語はもはや鏡像ではなくなりました。
待遇の面でも扱いが難しい語です。客の立場でこれを口にすると、評価が作り手に直撃する。同じ内容を「口に合わない」と言い換えれば、基準が自分の側に移り、料理ではなく自分の舌の問題として提示される。事実の記述は変わらないのに、責任の帰属だけが動く。丁寧さとは、しばしばこの帰属の付け替えのことで、婉曲表現の多くは同じ仕組みで働いています。断りの場面で「今日はちょっと」と言うのも、原因を自分側の事情に置く操作です。同じ皿について語りながら、批評の対象を料理から自分の感覚へ移す。この移動が許されるのは、味覚の判定がもともと一人称の報告でしかないからでもあります。他人の舌を検算する手段は、誰も持っていません。
専門の位相に移ると、この語はほとんど消えます。飲食や醸造の評価を職業とする場では、否定の内訳が別々の語彙に分かれているからです。香りの立ち方、後味の残り方、温度、塩の当たり——どこが期待から外れているのかを分けて言う必要があるので、総合評価を一語で下す表現は使いにくい。日常語の一語が、専門の場では複数の軸に分解されるわけです。裏を返せば、この一語は分解されていない判定を丸ごと運ぶ道具だということになる。分解しないことが、その語の速さでもある。会話文でこれを使うと、人物が評価を分析していないという情報まで同時に伝わります。
厄介なのは、フィクションの中の方言が、現実の分布から独立に動くことです。ある土地の話者が実際に何を言うかと、その土地の出身として書かれる人物が何を言うかは、別々の問題になっている。言語学では、話し方と人物像を結びつける定型を役割語と呼び、翻訳や漫画の台詞に典型が観察されてきました。この枠組みの中では「あじない」は出身地の情報ではなく、人物類型の記号として読まれる。読者は台詞から生育地を推定しているのではなく、あらかじめ持っている類型の目録を照合しているだけかもしれない。書き手が方言を選ぶとき、扱っているのは地図ではなく目録のほうです。
役割語まで視野に入れると、選択肢は一気に増えます。時代劇の武家は「口に合わぬ」と言い、老人の役は「口に合わん」と言い、幼い子どもは語ではなく音を発する。同じ否定でも、位相の階層のどこから発せられたかで人物の輪郭が変わる。だから人物に否定を言わせるときは、語を選ぶ前にその人物がどの位相に立っているかを決めておく必要があります。育った土地、就いている仕事、相手との上下、その場が公か私か。四つが決まれば、否定語は半ば自動的に決まる。逆に、決めずに書いた台詞は、書き手自身の位相をそのまま露出させます。