語を使用頻度の順に並べると、頻度は順位にほぼ反比例して減っていきます。二位の語は一位のおよそ半分、十位の語はおよそ十分の一——ジップの法則として知られる、言語コーパスに広く観察される分布です。ただしこの順位表は固定ではなく、語は長い時間をかけて表の上を移動します。ここ数十年の話し言葉で順位を大きく上げたように見える形容詞の一つが「だるい」でしょう。少なくとも若い話者の会話における体感頻度は、一世代前の比ではありません。
もっとも、頻度の値は「どこで数えたか」から自由ではありません。語の使用は媒体によって偏り、同じ語でも新聞記事と雑談の書き起こしでは順位が大きく動きます。均衡コーパスと呼ばれる設計思想は、この偏りを均すために、書籍・新聞・雑誌・白書・話し言葉といった複数のジャンルから資料を集め、比率を決めて混ぜる方法です。この形容詞は、その混合の中でとりわけ不均等に分布する側の語でしょう。公文書や社説にはまず現れず、会話と、会話を写した台詞の中に集まります。だから全体の順位表を一つ眺めて上がった下がったと語るのは粗い。ジャンル別の内訳を開くまで、変化がどこで起きたのかは特定できません。小説はこの点で厄介な資料です。地の文は書き言葉に属しますが、台詞は話し言葉を写そうとする。同じ一冊の中に性質の違う二つの層が同居しているので、作品を一つの塊として数えると、両方の分布が混ざって輪郭を失います。
コーパス言語学が語の意味変化を追うときの常套手段は、共起語のプロファイルを取ることです。語の意味は、その語が付き合う語に現れるという発想で、古い用例を見るとこの形容詞の隣には「体」「手足」「足腰」といった身体の名詞が並びます。生理的な倦怠の語だったわけです。ところが現在の若い話者の使用では、「授業」「会議」「返信」「手続き」といった行為や状況の名詞が共起の座を占めるようになった——と、少なくとも経験的には観察されます。意味の重心が、身体の状態の報告から、対象への評価へ滑った。この種の変化は共起統計にそのまま痕跡を残すので、計量的に検証しやすい部類の変化です。
語そのものは新しくありません。古くから使われてきた形容詞で、語源については「たゆし」との関係を指摘する説をはじめ複数の説があり、一つには決めがたいとされています。それでも新語のように扱われがちなのは、頻度の急上昇と用法の拡大が「新しさ」の印象を作るからでしょう。語の年齢と、語の流行の年齢は、別の量なのです。
計量的に面白いのは、頻度の高い語ほど多義になりやすく、語形も摩耗しやすいことが広く知られている点です。高頻度語は使われるほど文脈が多様になり、意味は薄く広く延ばされていく。この形容詞の現在は、その途中経過に見えます。評価語化した用法は、もう身体の感覚をほとんど含みません。「返信がだるい」と言う話者は、腕の重さを訴えているわけではない。意味の漂白が進み、「面倒だ」「気が進まない」の縄張りを侵食しています。さらに、短縮された二拍の形が間投詞のように単独で投げられる用法まで現れているのは、高頻度語が擦り切れていく教科書的な経路です。
共起の分布は、意味の重心を示すだけでなく、意味を作りもします。コーパス言語学には意味的韻律という考え方があって、ある語が繰り返し否定的な文脈に現れるうち、語そのものが否定の色を帯びていく現象を指します。この形容詞では、逆向きの染色も起きていると見ることができます。授業、会議、返信、手続き。隣に立つ名詞はどれも、それ自体では善悪を持たない中立の語です。ところが繰り返し共起するうちに、名詞の側にも避けたいものという評価が薄く付着していく。語は付き合う相手を選ぶだけでなく、相手の評判のほうも少しずつ書き換えていくわけです。台詞に置くとき、この染色は無視できません。人物にこの一語を言わせれば、名指された対象まで同時に格下げされます。
書き手にとって、この計量的な現在は二つの実務的な帰結を持ちます。第一に、この語は世代の信号として働く。評価語としての用法を台詞に置けば、読者は説明ぬきで話者の年代を推定します。第二に、身体の倦怠そのもの——発熱の前触れの、あの鉛を含んだ感じ——を描きたい場面では、頻度で薄まったこの語は意外に働きません。低頻度の類義表現へ降りるか、症状の記述へ迂回するほうが濃度が出ます。語を選ぶことは、その語がどれだけ使い減りしているかを見積もることでもある。頻度表の上位に座る語は、便利さの代金を必ず描写力で取り立てるのです。