「彼は真面目な男だった。」——原稿の中でこの一文が死ぬ場面を、何度も見てきました。文法的にはどこも壊れていない。人物像の説明としても間違っていない。それでも読者はここで速度を落とさず、二行先で人物の顔を忘れます。属性を渡されただけの読者には、確かめる作業が残らないからです。
この語は本来、単独では働きません。働くのは、例外が起きたときだけです。規則を守り続けてきた人物が一度だけ守らない、そのときの落差を測るために置かれる目盛りとして機能する。目盛りは、測る対象が来て初めて意味を持つ道具です。人物紹介の段落で属性として置かれたまま、最後まで一度も破られない場合、それは定規を机に置きっぱなしにしているのと変わりません。物語の中でこの語が生きるのは、置いた地点ではなく、破られた地点においてです。
もうひとつ、近代を通して付着した含みの問題があります。この語には、堅苦しさ、融通の利かなさ、面白みのなさという評価が長く貼りついてきました。「真面目な話だけど」という前置きが、話題の重さではなく空気の変更を予告することからも分かります。書き手は二つの態度しか取れません。この含みを利用して、人物を退屈な側に置いてから覆すか。あるいは含みごと捨てて、別の語で誠実さを書くか。中間はうまくいかない。読者の側にすでにある連想を、書き手の意図だけで消すことはできないからです。
具体的な処理を三つ挙げます。第一に、地の文から他人の口へ移すこと。語り手が保証すると評価が確定してしまいますが、同僚が言えばそれは評判にすぎず、覆る余地が残ります。第二に、行動一つに置き換えること。提出物が常に前日に届いていること、椅子が使用前の角度に戻されていること——具体は読者に検算をさせます。第三に、その人物が守っている規則の内容を明示すること。何に対して律儀なのかが分かれば、どこを破ったときに事件が起きるかも読者に予測できるようになる。
群像を書くときには、また別の使い道が出てきます。この属性を与えられた人物は、しばしば集団の基準線として働きます。全員が逸脱していると、誰も逸脱して見えない。定規役が一人いるだけで、他の人物のずれが読者に測れるようになります。そのため、この配役は目立たないほど機能する。逆に、定規役自身を主人公に据えると設計が難しくなります。基準線が動くと、周囲のずれが測れなくなるからです。一人称で自分をこう評させる場合はさらに厄介で、その一語はほぼ自嘲か言い訳としてしか響かない。自己申告された属性は、読者が最初に疑う場所です。
つまり、この語を原稿から追放する必要はありません。置く位置を変えるだけでいい。冒頭の人物紹介から抜き、破られる場面の直前か直後に移す。あるいは、破った当人が自分について使う一語として残す。読者が知りたいのは、その人物がどういう分類に属するかではなく、その分類がどこで壊れるかのほうです。人物を先に説明してしまう癖は、書き手の不安から出てきます。説明を後ろへずらす勇気だけで、同じ一語が急に働き出すことがある。