引っ越しの日、家具を運び出したあとの部屋を、人はしばらく眺めます。畳の日焼けの跡や、壁に残った画鋲の穴が急に目立つ。そういうとき口をついて出るのは「広い」か「がらんとしている」で、たいていはそこで終わります。ところが、何年か暮らした人が最後に戸を閉める段になると、同じ空間の同じ空っぽさが別の名前を要求しはじめる。中身がないという事実は動いていないのに、評価だけが入れ替わる。同じ空っぽさが二通りに読まれるのなら、基準は空間の外側にあることになります——最初の見当としては、その程度のことしか言えません。
努力が実らなかったことを言うときと、胸の内側に何もないことを言うときで、同じ形容詞が使われます。前者は外の事態についての評価であり、後者は感じている状態の報告です。担っている仕事がまるで違うのに、語形は一つしかない。多義語としてはよくあることのようで、少し眺めていると落ち着かなくなります。
整理の定石は、共通の核を探すことです。古い形の「むなし」は、中身が入っていないこと、実質を欠いていることを表したとされます。器に何もない。そこから、努力に成果が伴わない方向と、心に充実がない方向へ二本に分かれていった——と説明すれば筋は通る。通るのですが、これだと現代語の使い分けが説明できません。核が同じなら、どちらの意味で読むかは文脈が決めるはずですが、実際には決まらない文がかなりあります。
「虚しい勝利」がそうです。勝ったのだから結果はある。結果があるのに虚しいと言えるのは、外の事態を評価しているのではなく、期待されていた充填が起きなかったと言っているからです。ここでは二つの用法が分離せず、重なっている。とすると、この語の焦点は「無い」ことではなく、「有るはずだったものが無い」ことのほうにある。単なる欠如ではなく、見込みとの差分です。だから、何も入る予定のなかった器を虚しいとは言いません。空であること自体は条件になっていない。
意味の上で重なっていても、文法の側は二つを別々に扱っています。感情を表す形容詞は、日本語では三人称の主語をそのまま取りにくい。「彼は悲しい」「彼は寂しい」は、地の文でいきなり書くと据わりが悪く、「悲しそうだ」「寂しがっている」と迂回するのが普通です。この語も同じで、「彼は虚しい」は落ち着かない。ところが対象を修飾する形にすると、三人称の話でも何の抵抗もなく通ります。虚しい勝利、虚しい努力。話し手の内側の報告としては人称に縛られ、外の事態の評価としては縛られない。一つの語形が、統語のふるまいでは二つに割れているわけです。もう一つ、感情形容詞なら作れるはずの形が作れません。「悲しがる」「寂しがる」「痛がる」は他人の様子を外から述べる形として日常的に使われますが、「虚しがる」はまず耳にしない。当人の内側でしか成立せず、外から観察できるふるまいに結びついていないからでしょう。この語が指しているのは表に出る反応ではなく、当人だけが持っていた見込みのほうだという話に、ここでも戻ってきます。
同じ領域の語と比べると、焦点の違いが見えてきます。空疎という語は内容の質を問題にし、無駄という語は投入した資源との釣り合いを問題にし、不毛という語は生産の不在を問題にする。どれも欠如を言いますが、参照している基準がそれぞれ違う。この形容詞が参照しているのは客観的な基準ではなく、話し手が抱いていた見込みです。だから主観的で、反論されにくく、そのぶん説明を求められる。人物にこの語を言わせると、読者は必ず「この人は何を期待していたのか」を探し始めます。対応する漢語を並べると差はさらにはっきりします。空虚も虚無も、状態を名詞として立てて外から名指す語で、話し手の見込みは文面に現れません。和語の形容詞のほうだけが、言った当人を巻き込む。
ここまで来ると、最初に置いた二つの用法という区分が、やや粗かったと分かります。外か内かの違いではなく、どこに見込みを置いていたかの違いだった。努力に成果を見込んでいれば結果の評価に見え、生活に充実を見込んでいれば心の状態に見える。語のほうは同じ仕事をしている。実務としては、使う前に見込みの中身を決めておくことになります。それが決まっていない場面でこの語を置くと、読者は差分を計算しようとして手がかりを見つけられず、感情だけが宙に浮く。逆に、何を期待していたかが直前の数行で示されていれば、この一語は説明抜きで着地します。欠如を書く語のように見えて、書き手が実際に用意しなければならないのは、失われる前にあったはずのもののほうです。