虚しい

【むなしい】形容詞

使い分けの視点

「虚しい」が指すのは単なる空白ではなく、あるはずだった成果や充実と現実との差です。「虚しい勝利」のように結果があっても使えるのは、見込んだ手応えが埋まらないからです。「空疎」は内容、「無駄」は投入と効果、「不毛」は生産の不在を測るのに対し、この語では人物が何を期待していたかを先に場面へ置きます。

同義語

同品詞の類義語

虚ろな文芸的
空疎な文芸的
虚無的な文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

甲斐のない文芸的
張り合いのない
心に穴が開く

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

洞のような文芸的
砂漠のような文芸的
風の通り抜けるような文芸的

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

ぽっかりとcolloquial
寄る辺なく文芸的
うつろに文芸的

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

虚脱する文芸的
気が抜けるcolloquial
心が空く文芸的

体言的言い換え

用言を体言に変換

空疎文芸的
虚無文芸的
空白

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

砂を噛むような文芸的
根を失ったような文芸的
見返りのない

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

見込みと現実の差エッセイ関連

例文: 凱旋した将軍は、歓声の大きさに見込みと現実の差を感じた。

欠如ではなく、見込みとの差分を指している

引っ越しの日、家具を運び出したあとの部屋を、人はしばらく眺めます。畳の日焼けの跡や、壁に残った画鋲の穴が急に目立つ。そういうとき口をついて出るのは「広い」か「がらんとしている」で、たいていはそこで終わります。ところが、何年か暮らした人が最後に戸を閉める段になると、同じ空間の同じ空っぽさが別の名前を要求しはじめる。中身がないという事実は動いていないのに、評価だけが入れ替わる。同じ空っぽさが二通りに読まれるのなら、基準は空間の外側にあることになります——最初の見当としては、その程度のことしか言えません。

努力が実らなかったことを言うときと、胸の内側に何もないことを言うときで、同じ形容詞が使われます。前者は外の事態についての評価であり、後者は感じている状態の報告です。担っている仕事がまるで違うのに、語形は一つしかない。多義語としてはよくあることのようで、少し眺めていると落ち着かなくなります。

整理の定石は、共通の核を探すことです。古い形の「むなし」は、中身が入っていないこと、実質を欠いていることを表したとされます。器に何もない。そこから、努力に成果が伴わない方向と、心に充実がない方向へ二本に分かれていった——と説明すれば筋は通る。通るのですが、これだと現代語の使い分けが説明できません。核が同じなら、どちらの意味で読むかは文脈が決めるはずですが、実際には決まらない文がかなりあります。

「虚しい勝利」がそうです。勝ったのだから結果はある。結果があるのに虚しいと言えるのは、外の事態を評価しているのではなく、期待されていた充填が起きなかったと言っているからです。ここでは二つの用法が分離せず、重なっている。とすると、この語の焦点は「無い」ことではなく、「有るはずだったものが無い」ことのほうにある。単なる欠如ではなく、見込みとの差分です。だから、何も入る予定のなかった器を虚しいとは言いません。空であること自体は条件になっていない。

意味の上で重なっていても、文法の側は二つを別々に扱っています。感情を表す形容詞は、日本語では三人称の主語をそのまま取りにくい。「彼は悲しい」「彼は寂しい」は、地の文でいきなり書くと据わりが悪く、「悲しそうだ」「寂しがっている」と迂回するのが普通です。この語も同じで、「彼は虚しい」は落ち着かない。ところが対象を修飾する形にすると、三人称の話でも何の抵抗もなく通ります。虚しい勝利、虚しい努力。話し手の内側の報告としては人称に縛られ、外の事態の評価としては縛られない。一つの語形が、統語のふるまいでは二つに割れているわけです。もう一つ、感情形容詞なら作れるはずの形が作れません。「悲しがる」「寂しがる」「痛がる」は他人の様子を外から述べる形として日常的に使われますが、「虚しがる」はまず耳にしない。当人の内側でしか成立せず、外から観察できるふるまいに結びついていないからでしょう。この語が指しているのは表に出る反応ではなく、当人だけが持っていた見込みのほうだという話に、ここでも戻ってきます。

同じ領域の語と比べると、焦点の違いが見えてきます。空疎という語は内容の質を問題にし、無駄という語は投入した資源との釣り合いを問題にし、不毛という語は生産の不在を問題にする。どれも欠如を言いますが、参照している基準がそれぞれ違う。この形容詞が参照しているのは客観的な基準ではなく、話し手が抱いていた見込みです。だから主観的で、反論されにくく、そのぶん説明を求められる。人物にこの語を言わせると、読者は必ず「この人は何を期待していたのか」を探し始めます。対応する漢語を並べると差はさらにはっきりします。空虚も虚無も、状態を名詞として立てて外から名指す語で、話し手の見込みは文面に現れません。和語の形容詞のほうだけが、言った当人を巻き込む。

ここまで来ると、最初に置いた二つの用法という区分が、やや粗かったと分かります。外か内かの違いではなく、どこに見込みを置いていたかの違いだった。努力に成果を見込んでいれば結果の評価に見え、生活に充実を見込んでいれば心の状態に見える。語のほうは同じ仕事をしている。実務としては、使う前に見込みの中身を決めておくことになります。それが決まっていない場面でこの語を置くと、読者は差分を計算しようとして手がかりを見つけられず、感情だけが宙に浮く。逆に、何を期待していたかが直前の数行で示されていれば、この一語は説明抜きで着地します。欠如を書く語のように見えて、書き手が実際に用意しなければならないのは、失われる前にあったはずのもののほうです。

文: hakadoru.ai 編集部

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